『断命』 市川雅一




君が心のわかき夢
秋の葉となり落ちにけむ
     ――オイゲン=クロアサン『秋』






























 ここに棺の大きなのがある。初老の男が中に眠っている。
周りに人がたくさんいて、ほろほろと涙をこぼしている。あるものはハンカチで鼻の下あたりをおさえ、あるものは男の枕もとに白菊を添える。雪洞(ぼんぼり)には雪化粧。走馬灯の仄かな色香。畳みの部屋に男は眠っている。部屋につづく廊下では親族たちがひそひとと話しては、相手を替えて、また話し込む。家は男の所有である。家を出入りする人の波は決して絶えることがない。
もう一度言おう。家は男の所有である。迎え提灯が庭を照らす。外には紫陽花が咲いている。男は榊のある所に運ばれる。男が家から出て行く。男は榊を見に行ってくると言った。男は駆け足で車に乗り込んで、御者に、早く出せと告げた。周りのものは泣いている。車はくさい煙を出して、かなたへと進んだ。周りのものは、寄り集まって茶を飲んでいる。ここは男の所有の家である。暑い水無月の話しが終える。




















 私は胎児であった頃をおぼえている。
どろどろとした羊水の中で、明日の天気を毎朝、毎晩心配していた。私の名を呼ぶ声が聞こえる。私の名はもう決まっている。母の腹を触る奴がいる。足にあたる。怠慢。光は、ない。暗い闇の中にて、光明を見つけるふりをする。雑音が耳石を指す。針のいたみ。天気は晴れのようである。明日も晴れで、その先もどうやら。腹の側面は無色である。くるりと腹の中で回ってみる。
明日は晴れと思ってもらってよい。世を信じるな。ほろりと笑み。もうすぐ生まれる頃である。
傘はいらない。服を選ぶのに手間取るなり。




















 英語の授業が終了した。長めのホームルームがある。先生はお喋る。話しを聞くものなどひとりとしていない。教室を出る。靴をはき、紐を蝶々結びに縛る。門を出る。住宅街をひた走る。茶色や白や赤の壁の群れを抜けると、田があり、稲穂が黄金を並べている。瓦解。田んぼ道を通って学校へ行っている。帰りも田んぼ道。目の前に立っていたのは少女だった。年は十二三か、十三四か。少女に一言だけ話し掛ける。「どいてくれ」
少女はにこりと笑う。皺は深い。「それでいいのよ」
少女は言う。「今はそれでいいの」少女は、二三歩下がって、ふつりと消えた。蛙がげこげこと、やかましく鳴いている。




















 いえね、ヨーグルトだけなんですよ。そう、ちょっと食べたかったんです。もちろんお金なんてないですから、ええ、あったら買いますよ。だからちょっと持ち出して食べようと思ったんですよ。そしたらお店の人ったら。だから、さっきのは万引きなんかじゃあありませんよ。勘違いはよしなさい。万引きなんて、賤しい人がするものでしょう。私は賤しくありませんもの。ほんとにヨーグルトだけなんですよ。




















ニンフォマニアの影法師、人に説を唱えたり。蕎麦の生姜に唐辛子、油は水辺と分かたれり。




















  庄一は、幼い頃、よく祖母の家に寝泊りしては、山姥の話しを聞かされた。
祖母の話す山姥はとても恐ろしかった。祖母が話す度に、白装束を着て、般若の面のような顔をした山姥が、包丁を持って、庄一を追いかけてくるのだった。
「いいかねえ、庄一。昔はこのあたりにも、よく山姥がでてな、みんな夜になると家の中に入って、喰われんように、はよう寝たもんやったんやで。でもな、ある時なあ、親子二人が山に登って降りられんようになってやな、暗うなっても家に帰れんことがあってな、親子はお父ちゃんと、その息子でな、はよう帰りたいもんやから、道もようけ見んと、走って山を下ってな、どれくらい走ったやろうか、先の方にな、真っ暗なのに、ようけ見える丸太橋があったんや。
親子はしめた、とおもうってな、ようけ注意もせんと、大急ぎで丸太に飛び乗ったんや。するとな、後ろから山姥が来おったんや。えらい恐ろしい顔してくるもんやからなあ、後ろで山姥が待て、待てと言うんやがな、親子は一目散に走りよんねん。ほんでな、やっとのことで家に帰るとな、息子が変な事を言うねんて。
おとうちゃん、さっきの山姥泣いとったがってな。それ聞いておばあちゃん悲しなってな、なんや、山姥でも、どんな嫌な人間でもな、いや、そういう人間ほどほんまは悲しいもんなんやで。やからどんな人にも優しせなあかんよ。ほんなら今日はもう寝りや。明日ははやからおばあちゃんと一緒に散歩に行くんやろ」
庄一には、山姥が泣こうが、全く関係なかった。ただただ山姥がこわくて、布団にもぐりこんで、なかなか眠れないまま、朝になるのだった。庄一が目覚めると、祖母は、もう散歩に出ていた。




















 フィリピンの女はたどたどしい日本語で話しかけてきた。中指と人差し指をぴんと張って、にやにや作り笑いをしている。
「ニマンエンデイイヨ、オニイサン、イショニ、ニマンエンヨ」
フィリピン女の目の下は、くまではっきり縁どられていた。これは寝不足のそれではない。
おれがこくりと頷くと、フィリピン女はうれしそうにおれの手を引き、小走りで進みだした。hotel に着くと、フィリピン女は、先に金を出せと言ってきた。おれは紙幣を二枚取り出し、フィリピン女に握らすと、いきなりフィリピン女を抱きしめた。そのまま強引にbed に押し倒し、白いワンピースを引きちぎった。乳房を引きちぎれるほどにむさぼる。おれはフィリピン女の性器を指で丹念に濡らしてやってから、事に及んだ。フィリピン女はけたたましく喘ぎ、自分からよく声を出した。おれは無言で運動を繰り返す。なぜか、学生の頃やっていたfootball を思い出す。
おれは射精を済ませると、フィリピン女を床に蹴りつけて、服をゆっくりと着てから、部屋を歩く。後ろではアリガトウと声がする。マタネとも言っている。きゅっと振り返って、もう一度フィリピン女を蹴ってから、hotel の外へ出た。やや肌寒い。
暗闇の中に街灯の明かりが悲鳴をあげている。おれはひとりで暗闇に足音を響かせる。街灯の周りには白い虫が多く飛んでいた。おれは泣いていた…………

























 男はなにもすることがなかった。リスと虎をくっつけたような名詞が、彼を説明する肩書きである。彼の恋人は先週死んだ。自殺した。遺書があった。彼のことはひとつとして書いていなかった。男に目的はなかった。謙虚。米が欲しかった。錯覚。男はふらふらと歩いて、暗い路地に入った。レストランの裏であった。ポリバケツに、目一杯の残飯が捨ててあった。男は貪り喰った。あまりがつがつするからトマトや卵があたりに飛び散った。誠実。すると店の勝手口からシェフみたいのが出てきて、なにしやがんでぇ、この野郎、と言った。男はずんと立ち上がり、泣きながら言った。食ったっていいじゃあないか、食わせてくれたっていいじゃあないかと言った。シェフは呆れたような顔で男をみつめ、ああと言ってから、食い終わったら片付けてくれよ、と言ってそそくさと店に入っていった。男はパセリの固まってあるのを食べ始めた。男は膝をついて食べていた。
路地には通行人さえいない。











破天荒 平成13年 夏休み直前増刊号より

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