『ブルー・ハイスクール・ファンタズム(前編)』 緑一色2 誰もが忙しく、めいめいの仕事に取り組んでいる。放課後の青城高校は十日後にせまる文化祭に備え、爆発させる青春エネルギーを蓄積しつつあった。 「それでは、全員そろってはいませんが、図書館部、部会をはじめたいと思います」 内海遥が立った。六人掛けの机の上、各自の席に一枚づつ置いてあるザラ紙プリントを手に取る。 「ちょっと待とうぜ、まだ三人しかいないんだし」 「健太の言うとおりだよ。待ったって、あと二人っしょ」 遥は石川健太と江崎美智をみて、そうよねえ、と言いながら再び席についた。「大体奈津美先生はどこに行ったのよ」 「なっちゃん先生はきっと俺たちを信頼してくれてるのさ。だから自分が居なくても平気だって思ってんだよ」 「健太はともかく、はるちゃんと朝倉先輩がいれば安心じゃん」 「うるせー」健太は伸びた前髪を掻き揚げた。もう片方の手で企画書を手にする。それは今まで考えてきたアイデアを昨日の夜、形にしたものだ。ザラ紙をもう一度見直してみる。 『例年図書館部の企画としては喫茶店を二日間にわたり営業し、好評をいただいているが、今年は単純な喫茶店に終わらず、空想世界の文化を喫茶店に取り入れ、より多くの客に来てもらうようにしたいです。具体的なことは、1物語の登場人物と同じ衣装を着た人がお茶とか持ってく 2物語に出てくる食べ物や飲み物を可能な限り再現する 3その他』 赤ペンの訂正が数箇所ある。遥が加えたものだった。間違いすぎだろう、企画書を眺めていた美智がつぶやいた。 「健太にしてはよく考えたほうね」と、遥。 「そうだろう? いいよな、これ。図書館っぽいし」 「でも簡単に言ったら、コスプレ喫茶じゃない? よくこんな企画通ったね」 「アタシが頑張ったからな」 司書室の扉が開き、ゆっくりとした身のこなしで平賀が出てくる。 「ちょっとしたコネをね、使ったのよ」 「あ、悪いコトしたんだ。絶対そうだ」 「人聞きの悪いこと言うなよ江崎。世の中にはね、純粋だけじゃやってけない時があるのよ」 平賀は視線を美智から遥のほうへとスライドさせていく。内海は目を合わせないよう、企画書を見た。 美智は眼鏡を中指で押し上げた。「で、どのくらい予算は取れたのかしら」 「そのことは、ちょっと後から話しましょう」遥が中庭を指差した。窓越しに見える南棟の廊下を、ちょうど朝倉麻衣が歩いている。 「あのロングは、麻衣先輩だな」 「ほかにどのロングが居るって言うのさ」健太の胸に美智が手刀を入れた。 「すまない、遅くなった」図書館の戸を開けるなり朝倉は言った。そのすぐ後ろに、大森が隠れるように立っている。 「思い出した。進路の相談会があったんですよね」 朝倉は頷く。 「良いですよ、別に。いちごちゃんはどうしたの? 」 「あのね、おこらない? 」 背の高い朝倉を盾にしながら、大森いちごは遥の顔色を伺っている。隠れても左右に束ねた髪がはみ出ているところが微笑ましい。 「取っ手に手が届かなくてね、あけられなかったの」 「前にもそんな事言ってたな。扉のところでずっと待ってたのか」 健太の問いかけに、いちごは顔を赤くした。 「委員長。今までの議題を説明してくれ」 五人全員が席についた。「説明も何も、今から始まるんですぜ、姉御」健太が言った。遥が再び立つ。 「それでは、改めまして、図書館部部会をはじめたいと思います。お願いします」 「お願いします」 「じゃあ、石川部長から議題について・・・・・・」 一時間もせず、部会は終了した。二人だけになった図書館に電卓を打つ音が響いている。健太は遥の隣で、予算配分の手伝いをしていた。 「後はもう無い? 」 「無い。布も小麦粉も砂糖も紅茶もコーヒーも紙コップも全部計算した」 「予算十万円かぁ。すごいよね。逆に、何に使ったらいいか分からないもん」 「コケられないよな」 「ふふ、怖くなったの?」 「そんな事は無い」 健太は企画ノートを開き、ラフスケッチを遥に見せる。 「まずこれ、『凪の谷のウマシカ』だろ、こいつを知らない奴はいない。次、『ロリー・ペッターと地獄の番犬』こいつもメジャーだ。ハーマイオニオンをいちごちゃんにやってもらう。そして次、今度はちょっと古くなるが『不可思議の国のアイリス』アイリスじゃなくて眼鏡ウサギの衣装を作るところがミソだ。最後は『バスターズ』の主人公、レナのコスチュームだ。こいつは甲冑みたいな物が付いてるからちょっと難しいぞ」 遥がいかにも退屈といった風にあくびをした。 「ちゃんと聞いてたか? 」 「半分くらい」話が終わったと、遥は荷物をまとめ始めた。 「べつに、問題は無いと思うよ。私はその、コスプレなんてしないけど」 「しないのか? ウマシカなんて内海にぴったりだと思ったんだけど……」 「皆がコスプレしちゃったら、だれが厨房に入るのよ」 俺が、といいかけて言葉を飲んだ。自慢ではないが『男子厨房に入らず』の教えを石川健太は守っている。一方、料理をはじめ家事全般における内海遥の腕は一般の女子高生のレベルではない。 「あたしはお菓子とか、お茶とかの担当でいいよ」 子どもの頃に母親を亡くして以来、三人の弟たちの面倒を見る過程で叩き上げられた実力に裏打ちされた言葉だった。健太は何もいえなかった。 「それじゃ帰るね。気をつけて」 「ああ、お前こそな」 バイバイを言いながら遥は図書館を出て行った。その背中に向かって振っていた手を健太は握り、噛んだ。 「一緒に帰りてえなぁ」 とは言っても、それが不可能に近い事は自身が一番知っている。遥と健太の家は正反対。おまけに彼女は自転車通学、健太は電車だ。恋人でもない限り、家まで送っていくなんてことは不自然極まりない。 「恋人になってしまえばいいんだけどな」健太は空中に向かって言った。 照明を落としてしまうと、外は日が暮れて薄暗くなっていることに気が付いた。校舎内の生徒に下校を促す放送が流れた。 健太は一般入り口に鍵を掛け、玄関に近い司書室から図書館を出た。 「いよぅ! 」 フライングクロスチョップだ。頚椎に鋭く伝わる衝撃が技の名前を教えてくれた。背後から攻撃されても、犯人はすぐに判った。 「いてぇーよ美智! 首は狙うなっていつも言ってるだろうが! 」 美智は笑いながら、ジャンプでずり落ちた眼鏡を正す。 「わかった。明日はドロップキックにするわ」 「意味も無く攻撃するのをやめろよ。で、何だよ。俺は今から帰るぞ」 「あたしも帰んのよ」美智は健太の後について歩き始める。二人とも、下足ロッカーに向かった。 「電車、何分だっけ」下足場でそれぞれの靴を取る。背中越しに健太は尋ねた。 「まだ三十分もある。ゆっくりでいいよ」 追い出しの放送が再び流れる。通例、これ以降校舎に残っている場合は指導の対象になるので、生徒たちは急ぎはじめる。 駐輪場から飛び出てくる自転車に気をつけながら、健太と美智は校門まで歩き、長い階段を下りた。 上り下りの激しい、丘の住宅街を抜けて駅まで辿り着く。 「いやあ、友達と話してたら遅くなってね」 「ふーん」 「一人で帰るのも何だし、寂しい独り者の青春日記に彩りある一ページを加えてあげよっかな、なんて思ったわけ」 「頼んでねーよ」 健太の事は意に介さず、美智は話を続ける。鞄の中に手を入れた。「ジャーン」 「オイ、待てよ、それは」 「そう、宇宙Gメン・ギャリバンダーDVDボックスよ」 「だわー! 何でお前が持ってんだよ、三万九千八百円だぞ! 」 「あたし昨日誕生日だったの。やっぱ娘の事良く分かってるわ、両親は」 「くれ、いや、ください! 」 「三回まわって……」 健太は三回まわってワンと鳴いた。 「あげるなんて言ってないよ」 「じゃあ貸してくれ」 「ただじゃやーよ」 駅の自動改札を抜け、ホームに立つと数分のうちに電車が来た。混んではいないが座席が空いていなかったので、二人とも立った。 「ギャリバンダーは置いといて、文化祭よ。どうなの? 」 「何が『どう』なんだよ」 「あんたもあれ、信じてるんでしょ」 「伝説か。あほらし。誰が考えたんだろうな。『文化祭の最終日に告白して結ばれたカップルは永遠に幸せになる』なんてな」 「あたし的に『ドキドキメモリーズ』が流行った頃からのものだと思うのよ」 「伝説の木の下で告白すると、って奴か。好きな女の子に振り向いてもらうために、最終的にはオカルトまで利用するなんて、普通に好かれねえだろ」 美智は車内を見回し、咳払いをした。 「あまりドキメモバッシングしないほうがいいよ。夜道歩けなくなるよ」と、小声で言った。 「ゴ、ゴホン。そうだな」健太も車内を見渡し、こちらを見ている者がいないか確認した。 健太の下車駅に到着した。 「じゃあ、文化祭の事はまた明日な。DVDの感想も聞かせてくれよ」 「あんた携帯持ってないんだっけ」 「生憎」 健太は振り返らず、電車を降りた。 閉じた扉に美智はもたれかかった。手すりの、健太が握っていた辺りを美智も握った。 「よく考えたら、貸しちゃダメじゃん。一緒に見ようって言わないと。だぁー、バカバカ。あたしのバカ」 健太は部屋のベッドに転がると、机の引き出しに手をのばし、秘密箱の中から内海遥の写真を取り出した。 去年の図書館研修合宿のときに撮ったもので、健太がもっている遥の写真はこれだけしかない。 「ふう」一つ溜息をついた。電車の中で江崎に言った言葉を思い出したからだ。 「あれだけ啖呵きっておいて、いざ告白したら俺のほうがアホだよな……」 回転し、仰向けになった。 「引くよなあ。内海だし。伝説とか馬鹿にしてそうだし」 もう一度転がるとベッドから落ちた。 「だあーっ。自分で自分追い詰めてんぞ」うつ伏せのまま、足をばたつかせた。 「別にいいんじゃない。好きな人に振り向いてもらうのに、なりふり構ってなんていられないでしょ」 「でもさあ、ダサくないか」 「関係ないよ。逆に女のほうから振り向いてくれる、何て思ってるナルの方がイタいよ」 「そうだなあ」 「そうよ。人にもよるだろうけど、あたしはあたしの為に一生懸命な人が好きだな」 「ありがとう、遥。がんばるよ」 「いや、あたし、ハルカじゃなくて光なんですが」 「オイ!」健太は飛び起きた。無理な体勢から起きたので腰骨が音を立てた。写真は背中に隠す。 「光、お前いつからそこに! 」 「いや、十三行くらい前からあなたと会話してたんですけど。兄貴、もしかしてあっちに逝ってた? 」 「何でもねえ。独り言だ」 「一つ言っておくけど、トリップするのは家の中だけにしときなよ。そういう奴が許されるのはマンガだけだから。実際」 「誰がするか。だいたい部屋に入って来る時は……」 「たわけ! ノックしたわ! あんたがオナニーに熱中してて気付かなかったんだ」 「コイてねえ! 」 「まあいいけどさ、身内の自慰行為なんて見たくも無いし。バツボックス借りていくよ」 「お前の部屋に置いてろよ、もういちいち取りに来るな」 「あのね、普通の十四歳女子中学生は『鉄騎士』なんてやらないの。兄貴と違って私友達多いから、イメージもけっこう大切にしたいの」 「俺は友達少ないんじゃなくて、友達選んでんの! 」 「そしたら周りがオタクばっかりになったんでしょ。はいはい判ってるって」 「人の話を聞け! 」 「じゃ、私十一時ぐらいにまた来るから、それまでに終わらせてスッキリしておいてね」 「何をだ」 「私は兄貴の好きなゲームに出てくるような妹じゃないから。なんかしたら警察に突き出すからマジで」 閉まったドアに向って、健太は拳を繰り出した。「一辺泣かすぞ」 写真の遥を見ると、笑顔で怒りが失せてきた。再び二人だけの世界に入ろうと、写真を手に健太は横になった。 「うーん」唇を遥に近づけていく。 「ほらやっぱり! 」光が扉をいきなり開いた。 「だぁー、違う! これは違う! 」 翌日の放課後。 「なっちゃん先生、窓開けていいですか? 」 スマートは近年に流行したミニカーだ。その広いとはいえない車内に平賀の吐く煙が充満している。 「ダメだ。煙が出て行くだろうが」 平賀は吸っていた両切りピースを、既に吸殻で飽和状態になっている灰皿にねじ込んだ。右手はハンドルを操作しつつ、器用にもう片方の手だけで煙草を振り出す。 シガーライターを使って火を付けると、また盛大に煙を吐いた。 「アタシのささやかな楽しみを奪わないでくれ」 「でも、買ってきたものに匂いがつくと内海とか文句言いますよ」 「アタシは特に困らないからいいよ」 健太は平賀と買い物に行ったことを後悔していた。車に乗ったそのときは、フットペダル操作の度にのぞく平賀の太ももがおいしいかも、などと思っていられたが、その内に煙がしみて目を開けていられない状態になった。 だが、買い物に来るしかなかったのだ。 昨日の会議を受け、女子たちは仮装喫茶店の衣裳製作にとりかかった。布がない状態なので、まず型紙作りだ。 早速健太の仕事がなくなってしまった。せいぜい、言われるままに道具を持ってくる事ぐらいしか出来ない。だからこそ、買出しの話が出たとき、すぐさまその役を申し出たのだ。 健太の誤算は、平賀も買出しを志願した事と、平賀の車が二人乗りだったことだ。いや、平賀が来なければ、内海と一緒に近所のショッピングセンターまで買い物に行けたかもしれなかった。 「そう恨みがましい目で見るなよ」と、平賀。 「いや、見てないっす。つーか前見て運転してください」 「そっかー。アタシがわざわざ車出さなかったら、あんたは今ごろあの中の誰かとデートできてた訳だ」 健太は煙の向こうの平賀を見た。鋭い。考えが見透かされている。 「で、本命はだれよ」 信号に捕まり、停車した。平賀が健太を見る。副流煙の為に表情は知れないが、おそらくの推測は出来た。 「何の……」ことですか、言おうとして言葉が遮られた。 「とぼけるなって。どうせ文化祭のときに告るんだろ。今言ったら、奈津美先生が恋のキューピッドになってやらんこともないぞ」平賀は手を伸ばして健太の顎を撫でた。 煙が晴れて平賀の顔が見えた。からかっているのだろうと思っていたが、そのような雰囲気ではなかった。かと言っておどけてもいない、ごく自然な眼差しだった。 「確かに、惚れてる奴はいます。けど……」 「けれど、どうした? 」 「そういうことは、自分で出来ます」 平賀は声をあげて笑った。 「ガキが言うじゃねーか」 青のランプが点灯し、車は走り出す。坂道を登っていくと、じきに学校が見える。 職員玄関に遥が立っていた。健太達の車を見ると二段の階段を降りて停車位置まで近寄ってきた。 車を降り、扉を閉めた二人に遥はお帰りなさい、ごくろうさまを言った。 「ただいま」健太が言った。 「わっ、タバコくさい」健太が近付くや、遥は手で鼻と口を覆った。健太は原因、運転席側の女を指差す。 「わり、ちょっと匂い付いたかも」『原因』は煙草を咥えたまま言った。 「もう! 」遥は両手を腰に当てた。 玄関から図書館部の残りメンバー三人が出てくる。小麦粉、砂糖など食材、衣装用の布などが分担して車から運び出された。 図書館に入ったところで、平賀を呼び出す校内放送が流れた。 『平賀先生、平賀先生、おられましたら至急会議室までお越し下さい。校長先生が大変お怒りになられています。繰り返しお伝えいたします。平賀先生……』 「あ、やばい」平賀はスカートのポケットから鍵を取り出すと健太に投げて渡した。「あと適当にやっとけ」 「適当、とは言え」麻衣は腕組みをしている。 「今日は型紙作っちゃったし、あと切るだけでしょ。家でも出来るんじゃない」美智が言った。 「縫製に入ると、帰り遅くなるから、今日は早めに切り上げようか」遥は紙袋から布を取り出した。「さ、分配しよ」 「いちごの分〜」 皆、今夜家で裁断してくる生地を手に帰路についた。美智は帰り支度もそこそこに、健太に擦り寄ってきた。 「昨日見たよ。ギャリバンダー」 健太も鞄に荷物を詰めながら聞く。「どうだった? 」 「最高。第二十五話、さらば鉄仮面、知ってる? 」 「知ってるも何も、知らなきゃいかんだろ。特撮オタクとして」 「両親の敵だった鉄仮面は、実は最愛の恋人、マリ子だった。で、それを知らずにギャリバンダーは戦ってるのよね」 「用済みになった鉄仮面もろとも、星一輝を殺そうと送られたミノムシ怪人」 「一輝をかばってミノ爆弾を受ける鉄仮面。そのとき仮面が外れて、マリ子の素顔があらわになるの」 「ごめんなさい。私、ずっとあなたをだましてた。この仮面を被って。だろ」 「何を言うんだ! 君は心まで仮面で隠していなかった。その証拠に今僕を助けた! 」 「ありがとうギャリバンダー、いえ、ホシカズキ。やっと素顔の、本当の私であなたと話すことができた」 「もう仮面はいらない。これからはずっと一緒だ」 「ありがとうカズ……キ……」 二人は宇宙Gメン・ギャリバンダー二十五話のクライマックスを演じきった。男と女の配役が反対で、美智がギャリバンダー、健太がマリ子になっていた点以外、細かな指の動きに至るまでほぼ正確だった。 「あ、ダメ、私涙出てきた」 「俺も今泣きそうだ」 「で、この後、事切れたマリ子に口付け」 『くちづけ』を意識して美智は言ったが、特に健太は気にとめなかった。 「怒りのファイアーギャリバンダーに新生するんだよな」健太はギャリバンダーの変身ポーズをとった。 「あ、そうそう」美智は拍子抜けて、気恥ずかしくなった。 「何赤くなってんだよ」 下校時刻は一時間前。校舎に人は少なく、放課後の図書館は静かだ。 健太よりも先に自分が意識してしまって、美智は数秒見つめあう、というより目を合わせることもできなかった。 「あのさ、DVDだけどさ」全く関わりのない本棚を見ながら言った。 「おう。いつ貸してくれるんだ」 「貸すのもいいんだけどね、なんていうか」 美智の視線は泳いで、図書館入り口に辿り着いた。 無遠慮に扉が開き、入ってきた女子生徒三人が館内の静けさを奪った。 「あ、美智居た」「さがしたよお」「あんみつ屋行こうよ」 三人娘の一人が微妙な空気を察した。「ひょっとして、邪魔だったりして」 「ぜんぜん、そんなんじゃない」美智は手を振り否定した。 「じゃね、健太。また明日」 「おい、DVD」 「貸してもいいけど、傷つけるなよ」 三人の女子生徒に混ざって、美智は帰ってしまった。 「なんだ、あいつ」健太は首をかしげた。 帰ろうと下足場に行くと、特徴あるシルエットを見つけた。高校生には見えない、低い身長。二つに分けた髪が歩くたび、上下に揺れている。 「おっす。いちご」 普通は肩に手を置くが、大森の場合はこちらが不自然に屈まないといけないため、呼び止めるときは頭に手を置く。 いちごは反り返って相手を確認しようとする。健太は手をどけた。 「あ、けんた先輩だ」反り返ったまま、健太に倒れこんでくる。 「どーん」 「どーんじゃねえだろ、ほら、起きろ」 両脇を抱え、いちごを無理やり立たせる。いちごは健太の人差し指と中指を掴んだ。握ろうにも、手が小さすぎて、二本指を掴むのが精一杯なのだ。 「わーいわーい」 楽しげに手を振り、歩くいちごを見ていて、彼女が妹であれば、と言う空想が浮かんできた。 両親が旅行に行った日、料理を作ろうとはりきるいちご。当然指先を包丁で切る。しゃぶって止血。当然だ。さすがに風呂は別々に入るが、夜になって突然雷雨。雷の夜は母親と一緒に寝ているいちごだが、両親は旅行中。で、成り行きで仕方なく俺の布団に・・・・・・。 「けんた先輩? 」 「いや、別になんかするって訳じゃなくて」 「壁があるよ」 「そうだよな。兄妹には越えられない壁が」 健太はコンクリートの壁に額をぶつけた。 「あはははは」いちごが笑った。 健太は尻餅をついた。額の痛みに目を瞬いている内に、何かがこみ上げて来た。鼻を手で抑えるよりも一瞬それが早く、白い夏服に赤い染みが一滴分広がった。 「鼻血だ」 「いってー」 いちごは近くの女子トイレに駆け込んだ。何をするのかと健太が思っていると、ハンカチを水で濡らして来た。 健太の顔をいちごが拭く。冷たさに、額の痛みも幾分和らいだ。口の周りについた血液を丁寧に拭ってから、かばんから出した脱脂綿を健太に差し出した。 「それ、鼻に詰めててください」 鼻血がこぼれないように注意しながら、健太は脱脂綿を適当な大きさにちぎり、鼻に詰めた。健太がそうしている間に、いちごはもう一度便所に入り、ハンカチを洗ってきた。 「はい。鼻の上にかぶせておくと、痛くないですよ」 「ありがとう」健太も便所に入り、手に付いた血を洗い流した。 出てきた健太を、笑顔のいちごが迎えた。「いっしょに帰ろ」 差し出された手を健太は握る。小さくて、優しく握らないと壊れてしまいそうな手をしていた。 「けんた先輩、覚えてるのかな」 「何を? 」 「いちご、中学生のときに一度、けんた先輩に助けられてるんだよ」 助ける、というと、健太はぐるりを囲んだ悪党をなぎ倒して・・・・・・という光景を想像してしまう。憧れはするがそんな状況には遭ったことがない。 「ええー」と、健太は答えた。 「去年、犬、覚えてないかなぁ」 「そういえば帰ってる途中、犬に追いかけられた事があったな。フライドチキン食ってたからなんだけど」 「いちごがね、犬の尻尾踏んで追いかけられてね、電柱にしがみついてたの」 電柱にしがみついて犬にスカートを引っ張られ、半分尻を出している小学生がいたような気がする。 「けんた先輩が犬をどこかに連れて行ってくれたの」 いちごは頬を赤くしている。「走っていく後姿が、すっごくカッコ良かったの」 校門を出てすぐのところに一台、車が止まっていた。鈍い銀色に輝くベンツは、車に詳しい者でなくとも、その高級感だけは感じさせる迫力のようなものを持っていた。 助手席の扉が開き、男が降りてきた。いちごの父親だろう。 どうして分かったのかを説明するまでも無い、男の身長が名札になっているからだ。 (ホビット? )健太は正月に見たファンタジー映画に、眼前の人物とごくそっくりのキャラクターが登場していたのを思い出した。頭頂は周りの景色を映すほど見事に禿げ上がっているが、揉み上げはたくましく顎鬚と繋がっている。毛の色が銀色である事も、現実味の無さを強調するようだった。 「おお、いちごよ! 」ホビットは両手を広げて娘の名前を呼んだ。 やる事が芝居じみて見えるのは健太の偏見だろうか。違う、と健太は信じたかった。 「どうしたと言うのだね? いつもは咲き誇るバラが今は曇天の下で蕾のまま身を隠しているよ。さあ、お前の固く閉じ結んだ二つの花びらから美しい真珠を私にこぼして見せておくれ! 」 迎えに来た娘がどうしてか不機嫌そうにしているので困っている、のだろう。演劇部が練習している、台詞は原作そのままに、麻衣台を現代の高校に移した『あおじる★ロミオとジュリエット』に似たようなくだりがあった気がする。 「ははぁ。得たり! 弓手の男がいちごの言う花泥棒というわけだ」 もともと柔和な男の顔立ちが、さらに笑顔になった。健太に手を差し伸べてくる。 「大森飯雄。いちごの父親だ」 「石川健太です」 健太は少し膝を曲げて握手した。 飯を大盛りか、と、どうでもいいことが一瞬頭に浮かんだ。 「パパのばかっ! 何で迎えに来るのさ! 」いちごがメシ雄に、頭の上まで振りかぶった鞄を投げつける。 「いや、娘よ、毎日こうして迎えに……」 射るようないちごの視線から隠れるように、鞄を盾にして父親が言う。いちごにしては精一杯の怒りを表現しているのだろうが、そのために頬が赤く膨らんでいるところなど、愛らしい以外の何ものでも無い。 「知らないよっ! 」駆け込んだ先は車の後部座席だ。 「いやあ、どうも申し訳ない」 はげ頭をさすりながらいちごの父親は恐縮する。ただでさえ小さいなりがさらに縮んで見えて、健太まで申し訳ない気持になる。 「いえいえ。こちらこそ」と、自分でも理解できない内に謝ってしまった。 車が去ってしまうと、周りに人が集まっていたことに気が付いた。恥ずかしい。言われも無く恥ずかしい。 その気持を紛らわそうと体の動作が大きくなる。やれやれ、よっこいしょ。口に出しはしないものの適当に腕を伸ばした。 と、すぐ後ろに人が居たようだ。とん、と拳がぶつかった。 「ごめ……」 やんわりと腕が押し返される。麻倉麻衣だった。 「気をつけたほうがいい」 「はい。全くその通りです」 「いちごのお父さん、可愛かったな」 え、あ、麻衣の言葉に健太の思考はひと時止まって、また動き出す。 (もしかしてさっきからずっと居たのか? ) そうだとすると、いまだにある人だかり――と言うと若干オーバーだが、それなりの注目は集まっている――の理由も分かる。健太ではなく、麻衣を見ているのだ。 「帰ろう」と、麻衣が言った。 通学路は同じのようだが、彼女と違って健太には補習だの呼び出し説教といったイベントが有るため時間軸が若干ずれるのだ。麻衣と並んで帰るのはこれが初めてのことだった。 健太と麻衣が並んで歩き始めたのを見て、周囲の学生も移動し始めた。どこの学校にもあるような桜の植えられた通りを抜け、しばらくも歩けば国道が横を通る大通りに出る。 「いつもこの調子で、困る」 それが辺りの連中の事を言っているのだとはすぐに分かった。麻倉麻衣ファンクラブの存在を聞いたことはあれ、健太の予想していた規模ではなかった。 男も女も同じ程度の人数だ。学年もばらばらの男女が二、三十人、集団ストーカーの様相だ。健太は時折振り返りなどしてみるが、それは恐ろしい、呪いめいた形相で睨み返されるのだった。 「いやはや」 「云いたいことがあるなら、はっきり云えばいいのに」 「麻衣先輩はもてるからなあ」 「私はもてるのか」 声はいつもと変わらない調子だが、健太の見た表情は、麻衣の動揺を映している。「知らなかったとか? 」 「話したことが、無いから」 「手紙とかもらったりは? 」 「するけれども、一行目に私に宛てて書いてあるだけで、後は全部筆者の自己紹介とか、そんなものばかりだから」 「ははは。好きだ、とも書いてないの」 「それがまず始まりだ」 「なぁかなか居ませんよ。ラブレターもらう人なんか」 健太はおどけた調子で言った。麻衣は正面を向いたままだ。 今まで健太は麻衣のことを「クールでミステリアスな女性」だと思っていた。彼女を一見するところで多くの者が得る印象と同じものだった。 そうではない。学力や運動神経は秀でているものの、彼女は理想化された、気高く、気丈な女性ではないと知った。 傍にいるとその容貌が、美しいながらも僅かに変化しているのが良く分かる。心にある不安や悩みが影となって現れているのだろう。健太は思った。 「好き、という事は、どういう感情なんだろう」 麻衣の真顔の問いかけに、健太は笑ってしまった。 「何か、可笑しかったか」 「いや、麻衣先輩らしいなと思って」 「悩むことが、か」 そうじゃなくって。健太は言った。 「誰だって悩みますよ。俺だって人並みに。でも好きとか嫌いとか、そう言った人間の心って言うのはその、言い表しにくいというか、人によって違うというか」 「ああ」麻衣が首を振る。確かにそうだな。とでも云うように。 「麻衣先輩の思う好きって感情はどういうのです? 」 「今、君が言語化しにくいと言ったばかりじゃないか」 「そこを何とか」 「そうだな。やはり、こう、語らって、悩みなんかを、打ち明けられる、数少ない存在、だろうか」 「ちゃんと言えるじゃないですか」 「どうだろう。まだよく分からない。君はどうなんだ」 「俺ですか。俺も良く分からないな」 「私だけに、言わせるというのは不公平だ」やや口調が強い。 うーんと。健太は後頭部、髪の生え際を掻き毟る。麻衣先輩なら言ってもいいだろうか。隠す事も無いのだろうけれども、やはり恥ずかしい。 「内海の事が好きなんです」健太は言った。 麻衣に変化は無い。言葉が続くのを待って瞬きをしている。 潔く言葉にしてしまうと、秘密にしていた事が不思議なくらいのあっけなさだった。健太は思った。 「何を、赤くなっているんだ。私は副部長ではない」 「ほんと、なんでなんでしょう」 健太は顔に手を当てた。腫れ上がったように熱を持っていた。 「君の、『好き』はどういうものなんだ」 「っと。あいつと話すと、なんか、落ち着くんです」遥のことを思い出しながら話すと、言うべきことが次々と生まれてくるようだ。 「なんか、黙って聞いてくれるから、ほんとに思ってる事が話せて、胸の中がすーっとするんです」しかし何を話しても足りないような感覚もある。もどかしい感じだった。 「それだけなんですけどね。でも多分それだけじゃないんです」 心臓を鎮めようと健太は一息ついた。 ふと麻衣が立ち止まった。 「私の乗る停留所だ」 「そうですか」言い足りない気持が強くて、もう少し麻衣と話していたかったけれどもそこはこらえた。 わざとらしいほどに元気良く、「じゃ! 」と言って別れたら、無意味に走りたくなって、健太は駆け出した。 腕を振り、鞄をばたつかせながら走り去る健太の後ろ姿に、麻衣は胸の辺りで小さく手をふった。 「私は、君の事が好きなのかもしれない」 さよならをしていた手を静かに胸に当てる。 「確かに、この気持は、何とも言い様が無い」 「ディスイズ、コマンダー・ドロシー。オズ小隊、各機状況を報告せよ」 『ランバージャック、異常ありません。どーぞ』 『こちらスケアクロウ、感度良好。敵、歩行戦車二機が接近中とのことです』 『メイディ! メイディ! こちらレオ! 敵はレールガンを使用、ただいま装甲値1! 至急応援を求む! 繰り返す至急応援をうわあああぁぁぁ転倒した! 脱出できない助けてぇええザ――――。ガ―――ピ――――』 「ちいぃ! ライオンが食われた! カカシ、俺の後ろにつけ」 『スケアクロウ了解。きこりへ、敵の移動データを転送する』 『サンキュー。おっと。こいつら全く警戒していないみたいだな』 「ランバージャック、榴弾の雨を降らせてやれ」 『ランバージャック了解。レオの仇だ! 』 『ビンゴ! スケアクロウより全機へ。敵は撤退を開始。繰り返す、敵は撤退を開始! 』 「よおし、ドロシー機前進する! 各機援護せよ! 一気に殲滅するぞ! 」 『了解』『了解! 』 「おーい。光さん」 「光ではない、コマンダー・ドロシーと呼べぃ! 」 『どうした隊長』 「なんでもない。オフラインでの問題だ」 ヘッドセットを介して会話が流れてしまうため、光は大きく、どこかに行けと追い払うように手を振って示した。 どこかにいけも何も、ここは俺の部屋だっつーの。仕方なく健太は妹の後ろでベッドに腰掛けた。 光がプレイしているゲームは鉄騎士・オンラインだ。歩行戦車を操り、最大で五対五のチームとなって戦いを繰り広げるというものだ。 ゲームの中で健太の妹は軍曹と呼ばれているらしい。ボイスチャットの声は野太い男のものに調整してあるので、まさかドロシー軍曹が十四歳の女子中学生だとは誰も思わないだろう。 「よし、状況終了! 」 『やりましたねー』 『隊長のおかげだ。しかしレオを失ったのは痛い』 「すまんが、今日はこれで失礼する。またな」 ネット上でのやり取りを終えて、光は健太に向き直った。 「なあ、お袋いないみたいだけど」ズボンを脱ぎながら健太は訊ねた。 「今朝『一週間ばかりお父さんに会いに行くわん』て言ってたじゃない」 「わんじゃねーだろ。飯はどうすんだよ〜」 「お金置いていってくれたみたいよ。私はもう店屋物で済ませたけど」 「マジか。腹減ったな」ボタンを外し終えたシャツを放った。 ベッドの上にあった部屋着のジャージを穿く。「どこに頼もうかな。早いところがいいな」 「ふふふ」光が健太に笑いかける。あまりない事なので健太はどきりとしてしまった。 「な、なんだよ」 「今日の光ちゃんはいつにも増して優しいのだった! 」 光は腰に手を当てて、椅子の上に立ち上がった。指を健太に突き出す。「兄貴の分もちゃんと用意してあります」 「ええ! 」健太の顔が輝く。「気が利いてんなあ! 」 「優しいでしょ」 「うんうん」 「だから私の部屋にバツボックスと鉄騎士コントローラー運ぶの手伝って」 「何でもしてやるよ」健太は進んでゲーム機と巨大な鉄騎士専用コントローラーを光の部屋まで運んだ。 「居間に用意してるからね〜」 偶には俺の事も考えてくれるんだな、と、健太は上機嫌で階段を下りていった。できれば毎日気を利かせてほしいものだが、それは高望みだろうか。 遥なら、きっと俺が帰ってきたら笑顔でおかえり、なんていって荷物を持ってくれるのだろう。食卓には俺の好きなおでん。湯気の向こうで遥似で美人の娘と、俺に似て凛々しいけれども腕白な息子が食卓について待ってる。俺の姿を見て、二人ともお帰りを言いに擦り寄ってくる。 「はあー。いいねえ」妄想に比べて現実は限りなく質素だが、それでも今日は妹が優しかった。それだけでもいい事だ。 四人掛けの食卓に丼がある。カツか、親子か。イクラだったらちょっと嬉しい。器に被せてあったラップを剥ぎ取った。 蕎麦色のものが器の中に詰まっている。振りかかった刻みネギやかまぼこの切れ端など、まるでかけそばの具のようだ。 何だこれは。いぶかしがりながらも「いただきます」と言って割り箸をつけた。 そばのような物が口の中で柔らかく、噛まなくとも舌の動きだけでほどけていく。独特の香味がねっとりとした感触と共に喉を通り抜けてゆき、胃袋の中で重たくその存在を誇示した。 「ソバだったんだな」 汁が見えなかったために気づくのが遅れたが、これは時間が経ったため、延びきってしまった蕎麦だった。 健太は一度箸を置き、冷蔵庫からウーロン茶を取り出して飲んだ。 きっと光も腹が減っていたのだろう。グラスを手に考える。だから、俺もそのうち帰ってくるだろうと考えて二人分を一度に頼んでおいたのだ。ところが俺は文化祭の用意で普段より帰りが遅れた。 「だからソバも延びたんだ」妹の悪意であろうはずがない。健太はお茶を注いだグラスを卓に置き、再び延びソバに挑んだ。 そして完食した。味はともかく、今日は善意を食べたのだと健太は思った。 丼をシンクに漬けるためキッチンに持っていった。流しに一人前用の、小ぶりなすし桶が在るのを見た時、健太の中で何かが弾けた。 「ひかりぃぃぃ! 」 階段を上って奥にある妹の部屋に突撃し、ドアノブを千切りでもするように何度も捻った。「開けろこらぁ! 」 扉には鍵がかけてある。 「今着替え中〜」 「いいから開けろぁぁったわ! 」 存外にあっけなく扉が開かれたため、引っ張る力に任せて健太は後ろの壁に頭をぶつけた。 「やりやがったな〜」したたかに後頭部を強打した健太は起き上がれない。ぶつけた場所に手をあててうずくまっている。 「なにしてんの? 誰か来てるみたいよ」 瞬きして目の前を飛ぶ星を消す。確かに妹の言う通り来客のようだ。呼び鈴が鳴っている。 「憶えてろよ〜」と、台詞を捨てて玄関まで下りていった。 「何方ですか」 機嫌の悪さがそのまま声に現れている。時間は七時半。どうせこんな時間に来るのは新聞の勧誘かNHKの集金に決まっている。健太はドアスコープを覗いた。女が立っている。 「あの〜。江崎といいますが。健太君はいますか」 おや。と、健太は思った。扉を開ける。江崎美智が、行動的に、後ろで一つにまとめた髪形だけは同じだが、普段は健太の見ることない私服姿で立っていた。 薄黄色をした七部袖のTシャツには『いただきイカゴン』のシルエットがプリントされている。スカートはごく普通の、デニム生地のそれだが制服と同様に短い。 「よっ。一人か? 」美智は笑っている。 「いや、妹がいるだけだけど。どうした」 どうしたと言いつつ、健太の目線は美智のぶら下げたビニール袋に行っていた。 健太の視線が上がる。美智が袋を持ち上げたからだ。「いや、今日行ったあんみつ屋が良かったからね。これ、お土産にもってきたの」 視線を泳がせ、眼鏡をいじり、もどかしげに身体をくねらせる美智は、健太の目に落ち着かない様子と映った。 「いや、でも本当はあんみつじゃなくてね、持ってきたのは、なんと言うか、あの」 「ギャリバンダ―? 」 「そ! 」美智が健太を指差す。「見たいだろうなと思って、とりあえず一、二巻だけ持ってきたの」 「おお! ちょうど良かった。サンキュー」 美智が背中に背負っていたリュックから、DVDのケースを二つ取り出したのを健太は受け取る。 「ありがとー。暇だったんだよな。なんだったら茶でも飲んでくか? 」半分冗談のつもりで健太は言ったのだが。 「うん! 」と、美智は嬉しげに答えた。 健太と美智は居間でギャリバンダーを見ることにした。健太の持つバツボックスにも再生機能はついているのだが、生憎妹が使用中である。 緑茶をすすりながら、美智の持ってきた土産を食べる。彼女が薦めるだけあって、ただ単に甘いというだけではなく上品な味わいだった。 一つあまったあんみつを、美智が妹さんにあげたらと言った。 「その必要は・・・・・・」 「今晩はー。妹の光です」ない、と最後まで言えないまま光が会話に割り込んできた。「兄がいつもご迷惑をおかけしています」 「いえいえ、慣れっこになってます」 「こんな可愛い人連れ込むなんて、お兄ちゃんやる! 」 「あはは、そんな。これ、良かったらどうぞ」 「ほんとに良いんですか! わあ。私あんみつだいっ好きなんです」 「いつかお店紹介するね。中で食べてもいい雰囲気だったよ」 「是非お願いします! 」 二人の会話のスピードに、健太がツッコミを入れる間もなかった。嵐のように話し終えると、光はあんみつをもって部屋に引っ込んでいった。 「可愛いね。光ちゃん」 「顔だけはな。さて、例の物だ」 テレビ台の中にDVDプレイヤーがある。観音に開くガラス戸をあけて、健太はディスクをセットした。 健太と美智は大画面テレビの前に、座布団を敷いて並んだ。 『宇宙Gメン・ギャリバンダー! 』力強い声とともに主題歌が始まった。 ドラマに向かって指摘を入れながら鑑賞する。 「あのパンチ当たってないよな」 「チャック見えてるよ! 」 「ワイヤーも見えてるよ! 」 「いやー、見ててハラハラするな」健太が言った。 「やっぱいいねえ」と、美智。疲れたのか脚を崩す。 「オープニングは飛ばすぞ」 健太はリモートコントローラーを操作する。電波が届いているか確認するためDVD本体を目で追う。すると鏡面のように、ガラスに景色が映っているのに気がついた。 並んで座っているためだろうか。美智の座り方が無警戒な為に、太ももの奥にある青白ストライプの薄布が明らかに覗いている。 「……」 「おい。飛ばし過ぎ」 「あ、すまん」慌ててボタンを操作して画面を戻す。視線は戻さない。 『第三話・悲しみの別れ・非道の鉄仮面! 』が始まった。 「そ、そう言えばさあ」健太の声は少し上ずっている。 「おう、どうした」 「今日麻倉先輩と一緒に帰ったんだよ。途中まで」 「ふーん」その時美智が姿勢を変えた。健太は美智を見る。 レンズのむこうにある二つの瞳が自分を見ている。その事をあらためて意識して気恥ずかしくなり、また、パンツを覗いていたこともあり健太は照れてしまって、再びテレビ画面を見る。 「そしたらさ、いきなり『好き、とはどういう感情だろう』なんて言い出すんだよ」 「物真似、あんま似てないよ。で、どう答えたの」 「どうもこうもなあ。言葉にし難いんだって言ったよ」 「へぇ」 そこで会話は途切れた。 それから、大人しく映像を見ていればいいというのに、一度目を覚ましたスケベ根性はなかなか収まらないもので、ことあるごとに健太の目はガラス戸を覗き込んでいる。 その事が、我が事ながら恥ずかしく、情けなく、健太はごまかすように言葉を発した。 「お前の好きはどんなのなんだ」 「そうだね」美智は前を向いたまま話す。「同じ好きなものがあって、それを共有して、楽しい時間が過ごせる人かな……健太は? 」 健太は迷った。朝倉に言ったのと同じ事を江崎にも言っていいものか。 江崎が他の者に情報を漏らしはしないかと心配なのではない。美智は情報通であるが、無節操ではない。悪口の類は言わず、秘密は守る。そして誰にでも気を使う優しい友人だ。 戸惑いは自分の中にある心の迷いだった。そしてそれは内海遥を前にして、しり込みし、言うべきひとことを押し込めてしまう理由だった。 江崎には言ってしまおう。そう決めてしまうと、あとは自然に口が動いた。 「おれ、内海のことが好きなんだ」 美智は一、ニ、三秒ほど止まって、「そうなんだ」と言った。 「そうなんだ。実は」健太は答えた。 美智はずれた眼鏡を直し健太を見、またブラウン管に見入る。 なんだ、意外に頓着しなかったな。健太もギャリバンダーを見る。第三話のクライマックス、鉄仮面登場のシーンだ。 鉄仮面の電磁ムチが一輝の両親を襲った。苦悶の叫び声。甲高い、鉄仮面の笑い声が響く。 『ギャリバンダーよ。いつまでも我々に楯突くがいい。ヘルビッグバンもまた、お前に地獄の苦しみを与えよう! アハハハハハ! 』 『父さん! 母さん! うわああああああ! 』 すでに息絶えた両親を腕に抱き、号泣する主人公。 ふと美智を見ると彼女も涙を流していた。健太も少しこみ上げるものがあったが、美智はその比ではない。頬を伝った涙が顎の先からスカートの上に落ち、大きなしみになっている。 健太に気が付いても、美智は涙を拭う事無くあふれるままにしている。両腕を広げたのを見て、健太は美智を受け入れ、ゆるやかに抱きとめた。 よし、よし。言うように背中を叩いてやる。美智は健太の耳元で洟をすすった。 「なあ。駅まで送るよ。すぐそこだし」 「すぐそこだからこそ遠慮するよ。走って五分かからないしね」 十時。DVD一巻を見終えて、美智は家に帰ると告げた。 泣きじゃくった顔は、濡れタオルで冷やしたと言っても目元にまだ赤味を残している。しかし口調は淡々と、いつも以上に落ち着いているようだった。 「お前がそう言うならいいけどな。じゃ、DVDありがたく見させてもらうわ」 「おー。また……学校で貸すね」 「どこでもいいけどな。じゃ、気をつけて帰れよ」 「おうっ! 健太もがんばれよ」 健太は苦笑する。「ああ。がんばる」 「じゃ」 美智はまとめ髪を振り振り、走っていった。 角を曲がってすぐに美智は立ち止まり、歩きに変えた。 「知ってた。知ってたよ。薄々感づいてた。だから泣くな、江崎美智! あいつがフられるまで待つんだ! 待つのも戦略だ! 」 泣きながら美智は帰った。 午前六時四十五分。緊張のために目が冴えて眠ることなどできそうも無い。ようやく息切れは収まり始めていたが。 いつもより一時間早く乗った通学電車の中で、健太は腕組みをし、朝のことについて考えていた。 騒ぎの発端は光が「遅刻する! 」と騒ぎ出したことにある。ただ、健太はその言葉に「吹奏楽部の朝練に」の修飾語がつくのを知らなかった。 妹の慌てぶりが健太にまで伝染し、ろくに時計を見ずに家を出てきてしまった。 父親の単身赴任先(新幹線で二駅)に母が遊びに行っているということも重なって、今日のような事故が起こったのだ。 (勘違いした俺が悪いんだ)目を閉じたまま、口の中でつぶやく。(早起きは三文の得)とも、繰り返すように。 朝の学校は静かだ。それは自然なことだが、本来多くの人間がいるべきところに誰もいないのはある種の不自然さがある。 いつもならば喧騒に、そんなことを思うひまも無いが、学校が本来持つ教育機関としての神聖さが際立つように静穏としている。 教室にかばんを置く。暇なのでこの際散歩でもしようと、校内をぶらついた。 西棟と東棟をつなぐ渡り廊下を歩いていると、ジュースの紙パックが落ちていた。ボランティアなどするつもりは無いが、今朝はなぜかそのごみを拾ってしまった。 「ごみ箱は・・・・・・」 見当たらない。教室に行けばあるだろうと東棟まで歩き、二の六の扉を開いた。引き戸のすぐ隣にあるごみ箱にそれを捨てた。 「あら珍しい」 「おわぁ! 」健太は飛び退いた。誰もいるはずが無いという思い込みがあったために驚きはなお大きい。 内海は扉に最も近い列の最前席に座っていた。 「内海か」 想い人の教室を知らない訳がない。しかしこの教室に入ったのは本当にごみを捨てたいと思う一心からであって、それ以外の不純な動機は一切なかった。健太は疑われもしないのに説明するように考えてしまった。 「健太がこんな時間に来てる、それもごみ拾いなんてしてる」 「ちょっとした手違いでな。おまえこそ何してんだよ。予習か? 」 内海は机上で組んでいた手を退け、椅子にもたれかかるように背筋を伸ばした。 「違うよ。そんなの家で終わらせてるし」 自宅学習をしていない健太には耳の痛い話だ。内海の前にある一冊のノートを健太もいっしょに見ようと、椅子を拝借し九十度の角度で机につく。 もっと近づきたい、出来ることなら内海の肩でも抱きながら談笑したいのだが、今の健太にできる精一杯の接近がこの距離だった。 「これは、企画のノート? 」 図書館部の文化祭企画について、そのノートにはまとめてある。細かな計画にいたるまで、数枚の余白を残して綿密に書き込みがあった。 「何か心配でね。こうしないと落ち着かない性格なの」 「いや、すげえ。すげえよ」ノートをめくりつつ健太が言う。 「ここまで細かく、いやー、すごい」 自分の描いた、コスプレのラフが縮小コピーして貼り付けてある。『凪の谷のウマシカ』のスケッチを見つけて健太は恥ずかしくなる。 言われないと気づかない程度だが、どこと無くウマシカの顔が内海のそれに似ている。この衣装を着てほしい人を想いながら鉛筆を走らせたからだ。 「それさあ」 ドキリ。心臓が音を立てる。あたしに似てるよね、そう指摘されるのだろうか。 「あたしが着る予定だったんだよね。健太の計画では」 「そ、うだな。そうだよ。やっぱり着ないのか」 「だから、お客に出す紅茶の用意とか、お菓子の準備とか、誰がするのよ」 「何とかなる! 心配するなよ」 あはは。そう遥は笑った。 「健太のそういうところ、あたし好きだな」 すきだな。すきだな。すきだな。その一言は脳内で反響して福音の鐘を鳴り響かせた。 「健太がそういう風に言ってくれるから、なんとなく安心できる。様な気がする。ははは」 これは俗に言う『いい雰囲気』というやつではないだろうか。野生の勘が告げていた。健太は深呼吸した。今しかない。 「どうしたの。面白い顔して」遥が言う。 「なあ、俺達、付き合わないか」 「いやだ」 返事の速さに後悔する暇も無かった。 (続く) |