『時は秋に向かう』 緑一色



 私の父は殺し屋だったと母から聞いた。その話をしたとき、彼女はいつものごとく酔っていたし、会った事もない男を父親と認識するには抵抗があったので私はいつものようにはいはいとだけ答えた。
 その男が死んだらしいことも聞いた。が、私にはどうでもいいことだった。人なら毎日何人でも死んでいる。酒が入ると饒舌になる母の言葉を私はテレビニュースが告げる殺人事件でも聞くかのように聞き流していた。

 父親が何をしていたのかは翔子の関心の対象外だったが、ひとつだけ感心していることは、その人物が十分な養育費を払ってくれていたことだ。金に困るどころか、翔子は比較的に裕福な部類に入る生活をこれまで送ってきたことを自覚している。母親と二人で住むには広すぎるマンション。服も靴も玩具も、幼い頃にねだって買ってもらわなかった物はない。今でも不自由ない額の小遣いを母からは与えられている。学費もそうだった。私立望海高校と聞いて県下では知らぬものはないだろう。翔子は奨学金も受けずにそこに通うことが許されていた。
 殺し屋かどうかは置いても、ろくでもない方法で金を稼いでいたのであろうとは容易に想像できた。だが、川上翔子にとって父親と呼べる存在はいないのだ。母の告げた男の死も別の世界の出来事だった。



 世の中の大半の高校生が忌避する期末テスト。望海高校では本日がテストの最終日だった。試験が終われば、夏期講習、そしてわずかばかりの夏期休暇が待つ。翔子の高校生活で二回目の夏、おそらく遊べる夏休みは今年で最後だろう。そこで何をするかは決めなくとも、漠然と遊び倒してやるぞとだけは考えていた。
 放課後。
 テスト期間なのはどこでも一緒らしく、昼過ぎの時刻ながら駅に学生は多かった。その中に一人、見慣れた顔を見つける。
「しょ〜こ」吉崎公子だ。翔子はキミちゃんと呼び返した。 「一緒に帰ろうと思ったのに、先に帰ってるしね」 「うん。今日は、早く帰って寝ようとおもってさ。どうだった?物理」公子は手を振った。ダメダメ。の意味だろう。 「瀧田マジむかつく。いっぺん死ねって感じ」
「出すって言ってたところほとんど出てたじゃない」と、翔子。「五十ページもあるのよ。そんなんやってられっかって」
「翔子は?出来たの?」
「うん。まあ補講はないと思う」
「いいなア……」
 電車がきた。乗り込む。
 車両の中、席はすいていたが公子はすぐ次の駅で降りるので、二人は昇降口前に立った。
「ねえ、十三日に『ジィル』のライブがあるの知ってる?」
「うん」翔子はうなづく。「キミちゃん前から言ってたじゃん。甲野君と行くって」
「うん。でもね、あのバカがいけなくなったって言うからさ。翔ちゃん暇かなって……」
「いく!絶対いく!」
「ちょうど夏期課外が終わる日でしょ」
「うん」翔子はカバンから手帳を取り出してメモを取った。
 (十三日・公子とジィルのライブに行く)
 一万人限定コンサートのチケットが手に入ったときの嬉しそうな表情を思い出し、翔子はあのバカ=甲野君と何かあったのだろうな、と推察した。
「甲野くん、どしたの?」
「知らないよ。あんな奴のこと」
 あ、やっぱり。翔子は心の中で言った。そして、手帳の今書いた文に「?」を付け加えた。
 公子はうつむいてしまった。
(困ったことがあったらなんでも相談にのるよ)という言い方を翔子はあまり好まない。本当に困っているなら自分から言い出すだろうと思うからだ。
 それから結局公子とは話さないままだった。別れ際にじゃあね、またね、とだけ言った。
 翔子の駅、高炉前駅まであとふた駅。空いている四人掛けの席に腰を下ろした。見るともなく外の景色に目を遣ると早速携帯電話が振動した。メールだ。
 ・あのバカのこと・
 公子からだった。


 どこかのワンルームマンション。
 鉄とグリースと硝煙の匂いに加えて、常時カーテンの引かれたこの部屋は少しカビの匂いもする。
 広くない部屋の中央に置かれたちゃぶ台は、拳銃やその部品によって占領されていた。
 国光はマーク23SOCOMを構えてみた。45口径弾使用は伊達ではなく、グリップの大きさが手に余った。
「悪い銃ではないと思うんだが、俺の手には大きすぎる」
「スワットの連中なんかは好んで使ってるらしいけどな」
「馬鹿。アメリカ人のサイズで話をするな」国光は銃を山瀬に返した。「大体、人を殺すのに口径は関係ない。重要なのは射程距離まで近づく能力だ。人間、体の真ん中に当たれば、たいていは死ぬ」
「言うねえ、山猫」山背が好々爺じみた笑いを浮かべた。
「じゃあお望みのこいつだ」
 男が取り出した包みを山猫……笠野国光は広げた。
「ストライダーナイフ・タイガーモデルだな」
 国光の口の端が片方だけ持ち上がっていた。「欲しかったんだよな、これ」そう言うと手元にあった新聞紙を丸めた。
「そいつはよかった」
 音も立てずにナイフは新聞紙の棒を両断した。
 いいなあ、いいなあ。とつぶやいた。その国光にむかって山瀬が言った。「AAが紛れたらしい」
 国光はナイフに見惚れている。「聞いているのか、国光」
「聞いていますよ、殺し屋だろ。猟犬(イヌ)か?」
「そこまでは判らんが、おそらくな。ところでこれ、SOCOMどうする?」
「いらん、いらん。FN57が入ったら持って来てくれ」
「また難しいことを言う。どっかの軍の正式採用にでもなれば横流し品が手に入るだろうが、まあ、無理だな」
 山瀬は玄関に向かい、靴をはいた。靴べらがないのでつま先をコンクリートに打ちつけながら履いた。
「靴べらを買えと前も言っただろう。そのぐらいには儲けてるんだろ、山猫よ」
「今度の報酬が出たら買うよ」
「それより、気をつけろよ」
「ああ」国光が答えた。
「一人で便所にはいらないようにするよ」


 教室で授業を受けている生徒は三十人と少し。夏期講習を受けなくてもいい部活動生が抜けているからだった。今日の内容は一学期に終わった数Uの復習。水平線に浮いた入道雲を眺めながら、実にのんびりと時間が過ぎていった。
 授業のチャイムが鳴り、教師にさようならを言うと翔子は二年D組、吉野公子のクラスに向かった。
 窓越しに探すと目が合った。教科書その他をカバンの中にやおら詰め込むと公子は小走りで教室から出てきた。
「お待たせしました」
「昨日は先に帰って怒られちゃったから」翔子が言った。
「甲野君と話した?」
「話したよ」
「仲直りは?」
「したよ」
 何それ。翔子は笑った。公子も笑った。
「じゃあライブは……」
「ごめん!ほんとにごめん」
 公子は両手をあわせてあやまった。翔子は昨日書いたスケジュールを見せた。 「ハテナが書いてあるでしょ。予想してたの」
「な、何かすごいような、嫌なやつのような」
「前者よ。決まってるでしょ」
 一階げた箱に降りるための階段に差し掛かったとき、二人は甲野と出会った。
 公子の顔が一瞬苦笑いのそれになって、次に「申し訳ないけど」の顔になった。
「今度、モスおごるから」公子はそう耳打ちして、手を振り、甲野洋平の所に駆け下りた。甲野は公子と目が合い、こちらもすまなそうに少し頭を下げた。
 一足先に翔子は階段を下りた。
 時間はまだ十二時前だ。帰るには早すぎる。公子と行くはずだったショッピングモールに向かおう。翔子の予定が変わることは特になかった。
 下足場に降りたとき、男子生徒を一人見た。別棟図書館からの帰りなのか片手にハードカバーを三冊ほど抱えていた。外の陽射しは強い。わずかな距離を歩いただけでも彼のように額に汗をにじませてしまうのだろう。にもかかわらずカッターシャツのボタンは上までとまっていた。
 どこぞのお坊ちゃんだろうか。望海高校にはそういった人種が多い。襟章は、青。翔子と同じ二年の襟章。
「あんなやついたかな」と、口に出してみたところにはもう校舎の中に消えていた。
 吉野・甲野ペアを思い出して少しうらやましいような気持ちが湧いてきた。特別親しい異性がいる事にではなく、依存できる他者がいることに対してだ。無論、その男子が目にとまったのはただ単にかっこ良かったからだが、依存できる他者はかっこいい男の方がそうでないよりも良いに決まっている。
 しばらくそんな事を考えていたが、いつものように阿保らしくなってやめた。
 携帯電話がない事に気がついたのは校門を出て五百メートルほど歩いてからだった。カバンの中を整理していたとき何気なく机の中に入れたままだとすぐに思い出した。時計を見た。十二時十五分前。取りに帰るとモールで見ようと思っていた映画の時間に間に合わなくなる、が電話を置いて帰っていたずらされでもしたら困る。
 電話のほうが優位だった。翔子はもときた道をまた戻った。
 凶悪な陽射しが頭頂部を焦がす。七月末の太陽は加減することなく光を注いでいた。戻らなくてもいい道だったのになどと考えると余計に暑くなるので極力無心で歩いた。
 昼にくぐる校門はそれなりに新鮮だった。夏服のブラウスの下で背中に流れた汗の玉を翔子は感じた。
 校舎の向こうには入道雲。風が吹き始めている。


 気配は感じていた。素人だな、と国光は思った。銃を向けられなくても殺したくなるような男だった。
 国光は仕事の時以外銃器を携帯する事はない。持たなくても良い程度には肉体を鍛えている。せいぜい、持ってナイフがいいところだ。
 学生服の時には流血沙汰を避けたいものだと常々腐心している。今回はナイフを使わなくて済みそうだと少し安心していた。
 各々が家路につき、徐々に校舎の中から人が消えていった。
 何処に行ってもその男がついてくるところからどうにも今日中に殺したいらしい。国光はしばらく待ってやったが教室にいる内には仕掛けてこない。仕方なく便所に向かってやった。
 中に入って、開いていた便所の引き戸を閉めた。
 足音を立てながら近付いて来るのは殺気を消すためだろうか。それとも、その方法を知らないからだろうか。
 小さく、撃鉄を起こす音。開く扉。
 男が身構えた銃の先に目標はいなかった。飛び上がった国光はそのまま踵を刺客の首筋に喰らわせた。
 鈍い音。
 タイル張りの壁に叩きつけられる体。しかし、それ以上動く事はもうない。
 同時に国光が着地した。鮮やかな殺しであったと満足げに体を起こす。汗ひとつかいていない。
 床に転がった拳銃を手に取り、注意深くハンマーを倒すと学生ズボンのポケットにねじ込んだ。男の身体検査をしておきたい気分に駆られたがそれは国光の仕事ではない。
 髪を掴んで死体の頭を持ち上げると鼻から血がこぼれた。
「国光です。二階北棟の便所が詰まりました。片付けお願いします」携帯電話から短く連絡した。その男の体格は国光とさほど代わらなかった。ファイアマンズ・キャリーで抱え上げ、便所奥の個室に運ぶ。洋式便座の上に腰掛けさせてやった。
 扉が開いたままだったことに国光は気がついた。
 廊下にいた少女にも今気がついた。
 記憶にある顔。おそらく、同じ組にいる女だったのではないか。他のクラスメイトと同様に言葉を交わした事はないがそれだけは記憶している。
 見られたか。
 国光にとって殺人を目撃されるという事は学校にいられなくなる事と同義だった。今、少なくともこの学校からは出ていかなくてはならないと決定したのだ。しかしそれ以上の事は思いつかなかった。
「何してるの、川上さん」国光は極力穏やかな口調で言った。まっとうな生き方をしている人間なら、殺人現場を目の当たりにして平然としている事は無いだろうと配慮したためだ。
「見た?」
 国光は声を作った。


 笠野国光は目立たないタイプの男子生徒だった。ずば抜けて成績が良いわけでもなし、そういえば他の男子と会話している所は見たことが無いなあと翔子は今思い出していた。
 その笠野が今人を殺した。どんな方法を使ったかは判らない。翔子が見た、抱え上げられた男の首は力なくだれて、開いた目はどこも見ていなかった。
 笠野が殺したのは、数十分前に下足場でみたあの男子生徒だった。
「見た?」便所から出てきつつ笠野が声をかける。叫ぼうか、それとも逃げようか。無理だ。異常なまでの喉の渇きを覚えた。叫び声はおろか声すら出そうも無い。まして足が震えていないことがあろうか。怯えを悟られぬよう翔子はカバンを持つ手に力をこめた。
「説明すると長くなるからしないけどさ。見なかったことにしてくれないか」
 翔子が話そうとしてうまくいかなかった。喉から空気が漏れるばかりだった。
国光は翔子の背に手をやり、屈めさせた。そうしてから息を無理に吐かせた。
「吸って」
 翔子は従った。
「吐いて」 「もう一回吸って」
 意識とは別に体が従い、次第に呼吸は楽になっていった。自分を押さえ付ける手を退けると翔子は一歩下がった。
「殺したの?」まだ極度の緊張状態にあることは変わりないらしい。何を聞いているんだ、と翔子は思った。思考と行動の統制がとれていない。喉を湿らそうと、出ない唾をのみこんだ。
「殺したよ。でないとこっちが殺されそうだったからね」
「警察に行くの?」
「行かないよ」
「逃げるの?」
「まあ、そうなるね」
 国光の声は暗くなかった。だからといってその反対でもない。話したことはない。これが彼の普通の話し声なのだろう。
「頼みがある。このことは誰にも言わないでくれないかな」
「自首しないの?」
「まあ、心配してくれなくていいよ。事件なんかにはならないから」
 自分が混乱している原因の一つは国光の態度にもあるのではないだろうか、と翔子は気がついた。落ち着きすぎているのだ。
「言ってることの意味がよく分からないんだけど。笠野君」
 話していると、だんだん舌が回るようになってきていた。「何かのいたずらなの?人を殺しておいて事件にならないことがあるわけないでしょう?」
「だから気にするなって。ややこしくなうから」
 作業服を着た男が二人、掃除道具を入れるコンテナを押しながら翔子たちの方へ近づいてきた。国光と目配せすると便所の中に入った。
「さ、ここまでだ。川上さん」
「帰っていいの?」
 国光はうなづいた。
「私が警察に行ってこの事を話すとは思わないの」
「くどいよ」そう言うと国光が笑った。「変な所を見せてごめん。忘れてくれよ。な」
 翔子は歩き始めた。その背中に向かって国光が行った。
「話せてよかった。さよなら」
 翔子は振り返ったが、そのときにはもう、国光は背を向けていた。


 妙な事があった割には時間がたっていない。帰るにはまだ早い時間帯だった。
 駅に着いたが出歩く気力は萎えていた。早く帰りたい一心で、翔子はたまたま停車中だった特急に乗り込んだ。
 柔らかいしーとに腰を落ち着けると幾分か気は楽になった。歩いてきた車掌から高炉前駅までの切符を買った。
 電車は動き出した、いつもより早く流れていく景色を見ているうちに駅三つは通り過ぎた。


 百年前の戦争で得た賠償金を資本に巨大な製鉄所を作った。そのときの溶鉱炉が倒れないままに残った。高炉前という名前の由来はその溶鉱炉からきている。製鉄以外に何も無い町だったために、今では廃れ、人は離れていく一方だ。
 駅前から翔子の住むマンションは見える。
 この町に引っ越してきたのは小学校に入学して間も耐ころだったから、九年ほど前の事になる。新しい家がビルのてっぺんにある。そのことがたまらなく嬉しかった。
 景色を見慣れた今でも、浜辺の花火大会に出向く必要が無いことは有難い。それ以外には何のメリットの無いただの高い家だ。
 暗証番号を押す旧式のオートロックの入り口からメインエレベーターまでの道は、床も壁も十年前に流行したコンクリート剥き出しのままの道だ。殺伐としている。ポストモダン建築と言うのだそうだ。
 足音はうるさいほどに反響するが外に音が逃げていかない造りと言う。エレベーターの、Rのボタンを押す音もやたらと響くのだ。
 いかにもアナログな音が到着を知らせた。開いたエレベーターに翔子は乗った。
 今まで、男が後ろにいたらしい。全く気がつかなかった。
 その男が筒のような物を翔子に向けていた。
 拳銃だ。
 翔子はその筒を鉄砲と見分けたのではないが、よく似た状況をドラマで見たことがあった。
 そのあと、少女は胸を撃たれ、エレベーターの中が真っ赤に染まる。死ぬ。
 ドラマと違うことに、筒の先は翔子の眉間を狙っていた。
 額に熱を感じた。何故かは分からないがその瞬間、『撃たれる』と思った。
 男の額が光った。翔子は強く目をつぶった。


 国光の放ったナイフは男の後頭部から前頭部へと突き抜けた。
 フォロースルーの体勢からゆっくりと体を起こした。
 そのとき、男の体が倒れた。間に死体を挟んで翔子と国光が向かい合った。
 国光は死体に近寄り、切れ味が良すぎて柄の部分まで刺さったナイフを抜いた。血糊を水で洗い流しておきたかったが、とりあえず死んだ人間の服でそれを拭った。
 エレベーターの扉が閉まった。が、上に昇っていくことは無かった。 (閉)ボタンを押してみると中で翔子が気を失って倒れていた。


 頭の痛みを覚えた。よく分からないままに、差し出された水を翔子は飲んだ。
 少し嫌なにおいがする。暗いのは分厚いカーテンが光を遮っているからみたいだ。周りを見た。知っている場所ではない。時計を見た。六時。「ここはどこ?」そう尋ねようとした男は国光だった。
「気分悪くないか」国光の問いに翔子は一言、「うん」と言えた。立ち上がってみたものの、めまいが来て足元がふらついた。国光が支えてくれた。
 雑誌の類が表面を覆っていて分からなかったが、どうやらベッドのような所に座らされているらしい。国光は肘なしのオフィスチェアーにかけている。
「ここ、どこ?」
「俺の家だ」部屋を見渡してから、「汚くてすまん」国光は言った。
「状況を説明したいんだが。構わないか?」
 是非も無く、翔子は首を縦に振った。
 自分を狙って差し向けられた殺し屋を国光は返り討ちにした。ところがその場面を翔子に目撃された。おそらく、一人がしくじった場合の予備がいて、そいつが目撃者である翔子を殺そうとした。それを察した国光がすんでの所で更なる殺し屋を始末した。また追っ手がこないとも限らないので自分の家に翔子を運んだ。
「質問は?」
「結局私、巻き込まれたってこと?」
 国光は目をそらした。「まあ、そうなるな」
「そうなるなって、ねえ、どうなるのよ。私家に帰りたいんだけど」
「無茶言うな。今度こそ殺されるぞ」
「だからそれは誰のせいなのよ!」
「誰のせいでもない。事故だと思って諦めろ」
「……」
「……」
 長くない沈黙の後、国光が腰を上げトイレに立った。翔子はこの事態の原因はどこかと思索していた。
 殺し屋って人種にはろくなのが居ないんだろう。
「なんだって?」ベルトを締めながら便所から出てきた国光が言った。「何がろくなもんじゃないって?」
「殺し屋よ」国光と目を合わせないように顔を背けながら。「人殺しは人間の屑だって言ったのよ」
 国光は答えなかった。何か言われると気持ちが身構えていたので拍子抜けした。横目でのぞいてみると国光もこちらを向いていなかった。
 言い過ぎたかな。翔子は思いつつもすぐには言葉が継げなかった。考えてみれば、国光もまた被害者なのだ。彼にとって私は何の関係も無い。その気なら昼間、トイレに前でころしていたはず。
 マンションの出来事も、全く彼の厚意からなのだ。
「少し、言い過ぎたね。ごめん」
 翔子は曲げていた背骨を伸ばし立ち上がった。「気にしてないよ」と、国光。
「ねえ、窓開けよ。少し換気しようよ」元気良く言うと翔子はカーテンを開いた。
「馬鹿!」国光は夏服の上着を掴んで翔子を引き倒し、同時に自らも床に伏せた。
 視線の先にあった部屋の壁、その角が瞬時に砕けた。爆発したのかと翔子は思った。ガラスの破片が散る。見ると、今開けようとした窓に放射状のひびが入っている。中央に、人差し指大の穴。
 頭を上げるな。国光は言いつつ伏せたまま手を伸ばし即座にカーテンを閉めた。
「だから狙われてるって言ってるだろうが!」
「狙撃されるなんて聞いてない!」
 恐れよりも怒りが勝って翔子は叫んだ。
「私は関係ないって言ってるでしょーが!」
「耳元でキンキン喚くな!猟犬に言え」
「何でイヌが関係あるのよ」
「正式には猟犬だけどな、イヌって言うんだ。あいつらのことを」国光はベッドのマットレスを持ち上げると収納部分を引っ張り出した。
 翔子は収納部にゴムバンドで留められた大小さまざまの銃を見た。本物なの……とは今更聞くまでも無かろう。
「ねえ、聞きそびれたけど笠野君も殺し屋なの」
「年収一億」
「私の父親も殺し屋やってたんだって」
「知ってるかも。名前は?」あれこれと銃に触りつつ国光が聞く。 「名前は?」
 しらない。素っ気無く翔子は答えた。
「そうか。ま、そうだろうな」
 国光は銃を翔子に放った。「ほれ」
「わ、やだ、やだ、こんなの」
 手の中でお手玉のように銃が跳ね、そのうち床に落ちた。
「何が嫌なんだ。人殺しの道具だから嫌だとか言うんじゃないだろうな」
「他にどんな使い方があるのよ」
「俺はさっきナイフでお前を助けたじゃないか。その過程でまあ人は死んだが」
「詭弁ね。それ」
「いいから、試しに持っておけ」
 何を試すのよ、と言いつつ国光の差し出す銃を手にとった。
 もっと冷たいものかと思っていた。国光の手の中にあるときは小さく見えた銃だったが持ってみるとちょうどいい大きさだった。
 初めて持つはずなのに何故か手になじんだ。銃の名前はグッログ26と言うのだと国光が教えてくれた。
「撃つとき以外は引き金に、今人差し指が掛かってるとこ。そこに指をかけるな。スライドと引き金にセフティがあるのがこの銃の特徴だ。プラスティックが多用してあって軽量化が図られている。だから力の弱い女でも撃ち易い。26はポッケトガンだから護身用にはぴったりだ」
「別に撃たなくていいでしょう」
「戦力として期待しているわけじゃない。ただ、俺が駄目になったらそいつで身を守れ」
「駄目になったらって、撃ち合いするの?今から」
「先にここを出る。蛇が来る前にな」
「……それも、もしかして殺し屋のあだ名?」
「蛇みたいにしつこくて嫌われてるかららしい」
 翔子は笑った。「君は、なんて呼ばれてるの」
「山猫」
 また、翔子は笑った。「イヌにネコにヘビ。動物園みたいね」
「お前、殺し屋なめてるだろう」
「だっておもしろいんだもの」
「蛇は強いぞ。多分、俺よりも」
 口調にも表情にも微塵の嘘は無かった。どうして分かるの、と尋ねると「虎を見て勝てないと思うのと同じことだ」と答えた。
「仲間には君を保護するように頼んである。情報を猟犬の親玉の所から消すことも。とにかく、そいつらが来るまでの辛抱だ」
 国光はチョコレート・バーとミニペットのコーラを差し出した。「食え。腹減っただろう」
 言われて、朝食から何も食べてない事を頭とおなかが思い出した。
 しかし、よほどの事が無い限りはとらない食事メニューだ。美味しそうにほおばる国光に倣って口にしてみると、濃厚なキャラメルバターが糸を引いた。
「チョコバーにはおにぎり三個分のカロリーがある。コーラはエネルギー吸収がよく、カフェインも入っているから元気が出る」
 口の端に付いたチョコレートを指で拭いなが。「今度殺し屋に狙われたらまた食べるよ」と翔子は言った。
 国光が笑った。
 学校で国光が言った、『話せてよかった』のことを聞こうと翔子は思った。
 しかし、できなかった。
 おもむろに国光が銃を手に取ったかと思うとそれを連射した。

 早すぎる。国光は舌打ちするとMP5kを玄関に向けてフルオートで撃った。一秒後、またマガジンを替えて撃った。スチールドアの、弾丸で開いた穴めがけて閃光手榴弾を投げた。
 爆発。
 勝負は一瞬だろう。どちらが先に引き金を引くか。先制攻撃はまぐれ当たり以上の期待は持てない。蛇にとって国光の攻撃は自分のシナリオどおりの事だからだ。状況は圧倒的に不利だった。
 逃げては死ぬ。国光はドアを蹴り開けるとそのまま通路に出た。右手にはクルツと、左手には突進しながら抜いたリボルバー、ボディーガードが握られている。 二挺で二方向、銃を向ける。
 居ない。
 殺し屋どころか人間の影も形も見当たらない。
 気のせいと言うことは無い。山猫がその名で呼ばれる理由はどんな気配も見逃さないからだ。
 あの時、強い殺意を確かに感じた。
 摺足で部屋に戻る。飛び出した拍子にこぼしたらしいコーラが床で音をたてている。
 蛇の気配は無かった。そこに居るのに、見えているのに、その男からは気配がしない。
 スーツの男が部屋に一人増えていた。その男こそ、殺し屋、蛇だ。
 蛇は翔子の首筋にナイフの切っ先を這わせていた。頬骨の浮き出た顔が嬉々としている。抗えば女は刃の感触を体の中でも味わう事になるだろう。
 国光は銃を捨てた。抵抗も犯行もするつもりは無い事を銃を床に置くことで示したつもりだった。
「狙撃はイヌの仕業だ」誰にと無く蛇がそう言った。ナイフが胸元を通るとブラウスが切れ、白い下着をのぞかせた。
 時折膝から崩れそうになる翔子の体を支えているのは突きつけられたナイフだ。薄皮一枚切れた首からはビーズのような血玉がいくつも浮いていた。触れただけで切れるナイフに体重を預ける事など出来るはずも無い。
「今日は、厄日だね、笠野君」
 翔子が恐る恐る声を出した。
「すぐに終わる。帰って寝られるよ」と、国光は微笑みかけた。すると、蛇が翔子を解放した。「女の事は聞いていない」
 くずれ折れる翔子を国光は支えてやった。「だめ、腰が抜けた」
「聞いていないなら、見逃してやってくれ」
 ゆっくり、蛇が首を横に振った。
「お前の右足にあるナイフで頼め」
 翔子を便所の前に腰掛けさせると向き直り、国光はナイフを抜いた。
 まず肩の筋肉から力を抜き、両腕を垂らした。相手のナイフに目を配る。ランドール・M4だ。ナイフを左手に持っているが左利きとは限らない。おそらく、カモフラージュだろう。そんな事を考えながらナイフをサーベルのように持ち替えた。
 ナイフは前に突き出し、左手は顔からそう遠くない場所にたてる。首筋を防御するためだ。ファイティングポーズをとった。
 蛇もおおむね国光と同じ構えをとった。
 十畳も無い狭い部屋の中、男二人は対峙した。どちらも動こうとしない。隙が無い、とはこの二人に事を言うのだろう。翔子はそう思った。
 十分程、いや、もっと経ったかもしれない。時間の感覚が掴めない。
 蛇がナイフを離した。フローリングの床に突き立った。国光が跳びかかる。
 国光のナイフの軌跡に沿って蛇の血液が飛び散った。踏み込みが深い。
 蛇の左腕が垂れた。国光の勝ちか、いや、国光の左腕に数本の小型ナイフが光っている。相打ちだ。
 国光のナイフは鎖骨を切断したらしい。血液が細い糸のように吹き出ている。一方で、蛇の右袖に隠されていたスローイングナイフは六本とも国光に刺さっていた。腕だけではなく、わき腹にも二本。
 蛇が国光を蹴り倒した。自身のナイフを素早く取る。馬乗りになるのとナイフが眉間めがけて振り下ろされるのはほぼ同時だった。
 防ごうとした国光のストライダー・ナイフは窓の方にはじかれた。
 両腕を使いたいのだろうが左手は互いに使えない。それでも腕力では蛇が勝っているらしい。必死に手首を掴んで刺されるのをこらえているがみるみるうちに切っ先と国光を鼻が迫った。
 ポッケトの中にある物を確認するようにしながら翔子はそれを取り出した。

「ナイフを捨てて!」
 力を緩めないままに視線だけを声のほうにずらした。
「早く、すてて!」証拠がグロッグを片手に構えている。教えもしないのに銃を持った右手に左手を添えて。
「女、安全装置が掛かったままだぞ」
 翔子は引き金を引いた。弾丸が右肩に命中した蛇はもんどりをうって倒れた。その隙に国光は翔子のほうに擦り寄った。
「安全装置の位置を習っておいてよかった」
「早く逃げろ。頭だけになっても襲ってくるぞ」
 小さな音が三、四つした。国光には分かったらしいが翔子にはそれが手榴弾の安全ピンを抜く音だとまではわからなかった。
 翔子は国光に抱えられた。倒れこむように通路に出る。
 炎が爆風とともに国光の部屋から噴出した。翔子には見えなかった。国光が全身でかばっていたからだ。
 野次馬があつまっている。翔子は国光を揺り起こそうとした。



 救急隊員が来て二人はストレッチャーに乗せられた。注射された薬は麻酔薬だったのだろう。救急車に乗ってから後のことは良く覚えていない。


 目を覚ましたのは病院のベッドの上で、八月に入ってからのことだった。
 太ももの骨にひびが入っているそうで、まだしばらく入院が必要だと医者に言われた。
「もう一人のほう、笠野って男の子はどうなりましたか」
 部屋にきた看護婦に翔子は尋ねた。
「この病院に搬送されたのはあなただけだけど。あの爆発事故の人でしょ、別の病院に言ったと思うわ」
 どこですか、と尋ねるとそこまでは分からないと答えられた。
 母が見舞いにきた。吉野公子も、その他の友人も見舞いにきた。だが、誰も笠野国光の事を知らなかった。

 病院の庭に植えられたコスモスが咲くころになってようやく退院する事が出来た。その頃にはもう夏休みは終わっていて、いつのまにか授業が始まっていた。
 狙われたくは無いが国光とはもう一度話がしたかった。その国光の席は空いたままになっている。

 制服が冬服に変わった頃、差出人の無い手紙が届いた。

『君の父親の墓を見つけた。今度一緒に行こう』





北九州文学 2001年度版より


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