サザエさん・外伝
『ワカメ大暴れ』 ローズセラヴィー



   マスオの会社

 今日も海山商事は、普段と変わらぬ一日を終えようとしていた。
「よぅふぐた君、今日も帰りに一杯、どうだい?」
「あぁ、あなご君かぁ。悪いが今日はちょっと……」
 そそくさと帰る用意をするマスオに同僚のあなごが話しかけてきた。少しとがりぎみのくちびるが彼の特徴だ。
「どぉ〜うしたぁ。今日は麻雀もやる予定なんだぞ。君が入ってくれないと始まらないじゃないかぁ」
「イヤァ〜悪い悪い、今日は義理の妹の誕生日でね、早く帰らないといけないんだよ」
 マスオは頭を掻いた。
「そうかぁ。それじゃ、今日はふぐた君のところは赤飯だなぁ。ワカメちゃんも大人になったじゃないかぁ」
「あ、あなごくぅん、それはちょっと違うんじゃぁ……ないかな……」
「……。ま、まぁ、そういうことでふぐた君は今日は来れないんだな。せいぜい家族サービスに精を出したまえ」
「悪いねぇ。そうさせてもらうよ」
 今日も海山商事は……平和であった。









   いその邸

 ガラガラガラッ
「ただいまぁ!」
 今日もカツオが元気よく玄関を開ける。
 テロテロテロッ
「お帰りなさいでスう!」(これからのタラちゃんのセリフは、最後の"ス"を1オクターブ上げてお読みください)
 タラちゃんは青いリボンのついた帽子をかぶり、いつになくおめかしをしていた。
「タラちゃ〜ん、今日はどこかにおでかけかい?」
「今日はワカメおねえちゃんのお誕生日でスぅ」
「バァブ!」
「やぁ、いくらちゃんも来てたのかあ」
「ハァイ!」
「姉さぁん、僕も連れてってぇ? ねぇ、いいでしょうお」
 カツオはサザエにしがみついて懇願する。
「だぁめ、あんたは家でお留守番!」
「いやだいやだ! 僕も行くぅ!」
「もう、しょうがないわねぇ。なにも買ってやらないわよ」
「やったぁ!」
 もちろんあとでサザエに駄々をこねて何か買ってもらうつもりなのである。これでこづかいが浮く、とカツオは有頂天であった。
 やっぱり、いその家も平和な一日なのであった。









   いその邸、居間

 テーブルには豪勢なごちそうが並び、「たんじょうびおめでとう」と書かれたケーキも出されている。
 しかし、時刻はすでに六時を回っているというのに、ワカメはまだ帰ってこない。
「遅いわねぇ、ワカメ」
「そうねぇ」
 サザエと舟が不安そうに顔を見合わせる。
 カツオはタラちゃんといくらちゃんの相手をしている。
「おねぇちゃんおそいでスぅ」
「はぁい!」
 タラちゃんもいくらちゃんも(?)心配している。
 遂に七時になってもワカメは帰ってこなかった。
「あたし、ワカメの友達のうちに電話してみる」
 そう言ってサザエは立ち上がった。
「そうしてくれ。あたしはその辺に探しに行ってきますよ」
「わしもいこう」
「僕も、行きますよ」
 フネと波平とマスオは隣のいささか先生にも協力を頼みワカメの捜索に出た。









   とある海岸横の駐車場

「おい、新入りの。ワカメだっけ? もう九時だぜ。ショーガクセーは帰らないといけないんじゃないの?」
 バイクの男がワカメに呼びかける。
「いいの。あたし、あんな家にはもう帰らないわ。このまま一生小学生で、留年し続けるのもイヤ! あたしは今日から生まれ変わるの。平凡で退屈極まりない生活から抜け出して、チョウのように華々しく、バラのように美しい人生を送るのよ!」
「ハッハッハ、そうかい。だったらまずその髪型から何とかしろよなぁ。そんなおかっぱ頭じゃ美しいバラにはなれねぇぜ」
「わかってるわよ。でも耳から下のほうは毛根すらないんだからしょうがないでしょ」
「ハハハハ。珍しいハゲ方だぜ。まあ、しばらくたてばいい具合に伸びてくるだろ。そんじゃ、出るぜ。しっかりつかまってな」(一体どんな趣味してるんだ? このヤンキーは?)
「ええ」
 ワカメは、ほおを赤らめながらその男のバイクの後ろに乗り、男にしがみついた。









   いその邸

 あれから一か月。ワカメはついに帰ってこなかった。家族や近所の人の必死の捜索にもかかわらず、ワカメの消息は依然として不明であった。
 町内でも様々な噂が流れたが、あの素直で明るいワカメがぐれて家出したなどということは、誰にも想像できず結局、何らかの事故に巻き込まれて死亡した、という説に落ち着いた。金が目当てならば、それなりの要求があったはずだからである。
 そんなある日のこと……
 ガラガラガラッ
「ねぇさん、ねぇさあん!」
 カツオが玄関から息せき切って駆け込んできた。
「どうしたの! 騒がしいわねぇ」
「ワカメが! ワカメが!」
「ワカメがどうしたって? カツオ! お、お、落ちついて話しなさい!」
「痛い! 痛いよぉ! ねぇさん!」
 カツオよりも落ち着いていないサザエは、つかんでいたカツオの襟首から手を離した。

「ぬぅあんですってぇ! ワカメが不良グループと一緒にいたんですってぇー?」
「そうなんだよねぇさん、昨日海岸通りで飾りだらけのオートバイの後ろにワカメが乗っているのを見たって、中島が!」
「確かにそれはワカメだったのね」
 奥から舟も出てきた。
「そう、少し伸びてたらしいけど、あの髪型は確かにワカメだったって!」
 …………
「とにかくお父さんを呼んでその海岸に行ってみましょう!」









   波平の会社

「ぬぅあんだとぉ! ワカメが不良グループとつきあっとるだとぉ!」
 電話口で波平がサザエと同じことを叫んだ。
『そうなんですよ。しかもその不良仲間と自動二輪に二人乗りしてたそうですよ』
「よしわかったぁ。これからすぐそっちに帰る。ワカメのことを知らせてくれた花沢さんも呼んでおきなさい。お礼ついでにそこへ案内してもらわにゃあならん」
『あんた、知らせてくれたのは中川君ですよ』
『「中島だよぉ、かぁさん!」』
 電話の奥でカツオの声がしたが、すでに電話は切られていた。









   いその邸

「ちわ〜、三河屋で〜す!」
 裏の勝手口から三河屋さんが顔を覗かせた。……が、珍しいことにサザエさんも舟もそこにはいなかった。そのかわりに奥の座敷のほうから激しい口論が聞こえてくる。
「大体お前がワカメを甘やかしたからこんなことになったのだ!」
「何言ってんですか! お父さんこそワカメには甘かったじゃありませんか!」
「わーん、おじいちゃんとおばあちゃんが怖いでスぅ!」
「サザエ! タラちゃんを部屋に連れていきなさい」
「父さんも母さんもそんなことしてる場合じゃないよ! 何とかしなきゃぁ!」
 カツオがようやく事態の収拾に成功した。
「ようし、わしが乗り込んでいってワカメをたぶらかした奴をとっちめてやる。母さん! 袴と槍とさかづきを用意しなさい!」
「父さん、不良相手に黒田節踊ってどうすんのさ!」
「やかましい! やるといったらやるんじゃあ!」
「父さん!」
「あなた、やめて下さいな」
「うるさい! わしゃぁ決めたんじゃあ! 九州男児の男気をみせちゃるったい!」
 議論は、どうやらまた泥沼にハマっていきそうである。
「お呼びでなかったか……こりゃまた失礼しました」
 三河屋さんはしぶしぶ勝手口の戸を閉め、帰ることにした。









   とある床屋

「次の方、どうぞぉ」
 一か月かかってようやく1センチ髪が伸びたワカメは、かつあげした金でようやく髪型を変えることにした。
「どんな髪型にいたしましょうか?」
 ちょび髭をはやした男が、ワカメににこやかな顔を向ける。
「…………てください」
「えっ、何ですって?」
「だ、だから茶髪にしてソバージュかけてちょうだいって言ってるでしょ!」
「ソ、ソバージュ……ですか……」
「なによ! 文句あるって言いたい訳? お金ならちゃんとあるわよ!」
「い、いえ、そういうことではなく、お客様の場合でした短めのおかっぱがお似合いなのでは……」
 ついにワカメの目に怒りの火がともった。
「このくそボケェ! あたしはそのおかっぱがいやでここに来たんじゃい! あんたナニサマ? 小学生だと思ってバカにすんじゃないわよ!」
 ワカメの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「あたしだって……あたしだっていろんなかっこうしてみたかったのに……洋服なんかいつもおんなじものばっかりでパンツは丸見え。しかもカバチャパンツ……ぶかぶかのブルマのほうがまだましだわ!
 髪にいたっては……20年以上もおかっぱよ! そのうえ耳から下しか髪が生えない特異体質。おさげにでもしようものなら、後ろからみた時変人よ! これじゃぁ、彼氏なんて夢のまた夢だわ。あたしは髪形一つ自由にできないのよぉ! あたしに許された自由なんて何一つないんだわぁ! わーんわーん」
 ワカメはさめざめと泣き始めた。だが、まだいつもの調子が抜けていないところがあるようだ。
 その時、店のドアにかけられた鈴をカランカランとならしながら入ってきた者があった。
「おぉい! また女の子を泣かしてるな。まったくいつもお前は……あれっ……ワ、ワカメちゃん!」
「三河屋さん!」
 入ってきたのはついさっき、いその家からシカトをくらってしまった三河屋のさぶちゃんだった。
 なんと三河屋のさぶちゃんは、この店の主人とは古くからの知り合いであり、さらに驚いたことには、昔、原チャリ暴走族をしていたときの走り仲間だったのである。人に歴史ありとは、まさにこのことを言うのであろう。
 ま、それはよいとして、あわてたのはワカメである。さっと椅子から飛び降り、一目散に逃げ出した。
「ワカメちゃん!」
「来ないで!」
「ワカメちゃん、みんな心配してたんだよ。ワカメちゃん!」
 ガルンッ
 店の外でバイクの音がした。さぶちゃんが飛び出てみると、ワカメがバイクの後部座席に乗るところであった。
「ワカメちゃん!」
 さぶちゃんは叫んだが、バイクはすでに走り去ってしまっていた。









   タクシーにて

 海岸に向かう一本道を二台のタクシーがひた走る。タラちゃんをたい子にあずけ、家族全員でワカメを探しにやって来たのだった。
「運転手さん、急ぐんじゃあ!」
 波平が叫ぶ。普段の落ちつきはどこへ行ったのか、いやこの姿が波平の本質なのか?
 すでに羽織を着込み、手には槍とさかづきが握られている。おい、本当にやるのか! おっさん! しかもなんか怒っているというより、うきうきしてるって感じだぞ!
 作者の心配をよそにタクシーは海にむかっていった。









   海岸沿いの駐車場

「ここです! ここでワカメちゃんを見かけたんです」
 先頭のタクシーの助手席で、案内をしていた中島が叫んだ。
「ここかぁ!」
 タクシーを急停車させ、波平が颯爽と飛び降りる。完璧にキャラが変わってしまったようだ。
 そこは海岸通に面した駐車場で、始めにワカメが不良仲間とあった場所であった。駐車場の壁には族の溜まり場にふさわしく、『LOVE & PEASE』『マリコ、哀してる』等の落書きが施されている。漢字を間違っているのはまあ、当然のお約束といったところか?
「娘をたぶらかした不良どもはどこじゃぁ?」
 波平が槍を振り回す。
ど、どこだあ〜〜
 マスオも鍋をかぶり、金属バットをかまえて、へっぴリ腰ながらも一応の武装をしている。
「マスオ兄さぁん、まだ誰も来てないよ」
 カツオがたしなめる。どうやらカツオだけが冷静を保っているようだ。
「お父さん、どうなさるんですか?」
 舟が尋ねる。
「うむ、しばらくここで待つことにしよう」
 波平がその場にどっかと座りこんで長時間のかまえを見せたその時、すさまじい轟音を立てながら、二十台ほどで編成された暴走族が、駐車場の前を通過していった。
「ワカメちゃんだ!」
 中島が叫ぶ。暴走する族の列の中ほどに『龍頭蛇尾』という訳の分からないのぼりを立てたバイクがあり、その後ろの席にワカメはいた。白い特攻服を着、べたべたに化粧をしてはいるが、風を受けてもなびかないあの髪型はまぎれもなくワカメであった。
「ワカメェ!」
 カツオが走り出す。
カカカ、カツオくぅ〜ん
 マスオもカツオのあとを追う。
「あなたがんばってぇー」
 サザエがマスオに声援を送った。
 だがしょせん人の足でバイクに追いつくはずもなく、マスオなどは足を絡ませて豪快に転び、膝小僧から血を、目からは涙をにじませることとなってしまった。









「と、父さん」
「何だワカメ、知り合いか?」
 男がワカメに呼びかける。
「し、知らないわよ、あんな怪しい人達……」
 駐車場では羽織袴のハゲおやじが槍を振り回し、鍋をかぶった男はバットを杖がわりにしてぼうっと突っ立っている。その後ろにはざぶとんを頭にくくりつけた女性二人組。誰がどう見ても怪しい集団は、しだいにワカメの視界から離れていった。ワカメはつい一ヶ月前までは彼らと同類だった自分を顧み、恥ずかしく思うのと同時に、そこから抜け出した今の自分を思って心から安心するのであった。
 だがワカメは失念していた。
 ……カツオの存在を。









   海岸通り

「ワカメェ!」
 カツオは小さくなっていく妹に向かって叫んだ。だがその声も爆音にかき消され、届かない。
「ワカメ……どうしちゃったんだよ。ワカメ」
 一家の中では正気を保つただ一人の存在となってしまったカツオは、がっくりと膝をついた。
 ふりかえると、後ろでは相変わらず波平が槍を振りかざし、さかずきを口にくわえて盛んに舞い続けている。
「父さんも変わってしまった。ぼくはどうすればいいんだ……」
 その時、スパパパと乾いた音が後ろから聞こえてきた。
「カツオ君! 乗って!」
 それは原チャリでワカメを追って来た三河屋のさぶちゃんであった。 「三河屋さん!」
 カツオはさぶちゃん愛用のスーパーカブに飛び乗った。
「カツオ君、しっかりつかまって!」
「わしもつれてけぇ!」
 騒ぐ波平を無視して、スーパーカブは走り出した。
 ヴォオオンヴォンヴォン……
 スパパパパ……
 けたたましい音をたてながら爆走する暴走族を追って、二ケツの原チャリが海岸通りを突っ走る。
 荷台に乗ったカツオは、あまりの震動の激しさに思わずお尻をおさえた。
「ワワワカカカカッメェェ!」
 体にあわせて声も震える。
「カツオ君、スピード上げるよ!」
 さぶちゃんはスロットルを一杯にひねった。
 パパパパパパパ……スーパーカブが加速を始める。
「いでででで」
 加速に比例してカツオのお尻の痛みも増していった。
 カブのスピードメーターが限界速度60キロを越えた。暴走族のバイクと、さぶちゃん、カツオのスーパーカブとの差はしだいに縮んでいった。









   暴走族のバイク

 しんがりのバイクがスピードを上げ、先頭に追いついた。ハンドルを握っているのはリーゼントにサングラスをかけ、モリモリの筋肉を見せつけるかのようなタンクトップを着た男だった。
「おやびーん、後ろから変な奴が追いかけてきたでありマッスル。いかがなさるおつもりでありマッスル?」
「ケーサツか?」
「うぅん、そうではないようでありマッスル。どうやらワカメちゃんの知り合いのようでありマッスル」
「よし、ここらで休憩でも取るか」
「みなさぁん、とまるでありマッスルゥー!」
         ★
「ワカメ!」
 前方のバイクが急に止まったのでカツオは中ほどのおかっぱ頭に向かって呼び掛けた。
「お、お兄ちゃん!」
「ワカメェェェ、会いたかったよぉぉぉ」
 原チャリの荷台の振動でヘロヘロになりながらもカツオはカブから飛び降り、ワカメに抱きついた。
「触らないで!」
 ワカメはカツオを振り払った。
「あたしはもうあの家には帰らないって決めたの。あの生活から抜け出してみてよく分かったわ。お兄ちゃん。お兄ちゃんこそおかしいと思わないの? お兄ちゃんは何年小学生をやってる?」
「うーん、もう二十年以上になるかなあ」
「そこよ! それを何とも思わないところがすでに異常なのよ! 普通の人はね、小学校なんて六年で卒業しちゃうんだよ。あたしたちの世界ではそのことに疑問を抱くことすらタブーになってるのよ」
「でも僕が気づいたときには既に小学生だったしなぁ」
 カツオはのんびりと答えた。
「もうっ、でもお兄ちゃんなら分かってくれると信じてるわ。あたしたちは止まった時間をさ迷うだけ。あたしたちに成長するなんてことは許されないのよ。お兄ちゃん、確か前にお父さんと約束したわね。中学生になったら腕時計を買ってもらうって」
「あっ、ってことは……」
 カツオはことの重大さに気づいてぼう然とした。
「そうよ! このままではお兄ちゃんは永久に時計なんて買ってもらえないわ! あたしなんか大きくなったらすてきなお嫁さんになって奇麗なウエディングドレスを買ってもらうはずだったのよ! でもあの生活をしているかぎり、あたしたちは一生あのまま。来年になってもまた同じ学年、同じクラスに同じ先生。毎年同じ宿題だってしなきゃいけないわ! あたしたちには小学生で進級することすら許されないのよ。あたしたちの自由はどうしたら手に入るのぉ?」
 ワカメは泣き始めた。
 そこには明らかに前とは違うワカメがいた。化粧と涙でぐしゃぐしゃになった顔も、カツオには大人に見えた。
「じ、自由……僕達が成長する……自由……」
 今まで考えてもみなかった言葉を、頭の中で何度も繰り返す。
「見つけたぞ! 娘をたぶらかしたハレンチ者めがぁ!」
 どうやら走ってきたらしい。息も切れ切れの波平は、それでもここが見せ場とばかりに槍を構えた。
「さけぇぇはぁぁ、飲めのぉぉめぇぇ」
「もうやめてよ! 父さん!」
 声を上げたのはカツオだった。
 それまでワイワイ騒いでいた族の連中も、しんと静まった。
「僕は……もう父さん達と一緒に暮らせない!」
「な、何じゃと……カツオ、お前まで何を言い出すんじゃ?」
「僕は、いや僕達は気づいてしまったんだ。僕達皆が時間のおりの中に閉じ込められていることに……僕もワカメも気づかないほうが幸せだったのかもしれない。でも知ってしまった以上、もうあの生活には戻れない」
「時間の……おり…。じゃあ、わしやマスオ君が何年働いても出世しなかったのは……」
「そうだよ。全部そのせいなんだ。そのことに最初に気づいてくれたワカメに感謝しなくちゃ…」
 波平はその場にへたりこんだ。
「間違っていたのはわしらのほうだったのか……」









   二年後

 カツオは中学に進学した。そう、いその家は時間の呪縛から解き放たれたのである。
 おかげでタラちゃんは来年めでたく幼稚園に通うことになっている。カツオは念願の腕時計を買ってもらった。ワカメは前の暴走族の男と今だにつきあっている。
 ますますこの男の趣味は謎である。
 今日はこの男の誘いで、家族全員でディスコにいく予定である。
「おやじぃ、そろそろ出かけっぞ!」
 髪をセンターで分けたカツオが波平に呼び掛けた。ガラガラ声である。彼は変声期を迎えていた。
「おう、今行くったい」
「オレさまも行くでスぅ」
 タラちゃんは、子供用の特攻服にサングラスをかけていた。そこへ髪を下ろし、真っ赤に脱色したサザエが現れた。
「ちょっと待てっちゃ。今母さんが化粧しとおっちゃ」
「年寄りの化粧は長かー」
         ★
「フィーバー! フィーバー!」
「ゴーゴー!」
「モンキー! モンキー!」
 いまいちノリが古いのが気になるが、みな思い思いに踊っている。


 いその家は今日も平和である。だがそれは以前とは確かに違っている。





北九州文学 1995年度版より


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