『非情の海』 きらばだすま フィリピン諸島沖で発生した台風は、台湾に上陸し散々荒らしまわった後、東シナ海から黄海へと向かうコースを辿っていた。ちょうど、琉球諸島のカーブに沿って進路を北に向け、支那と朝鮮半島の間をすり抜けてゆくようなコースだ。黄海沿岸や、九州西岸の住民にとって今年最初の台風になる。 台風の勢力は北に向かうにつれて徐々に勢力を弱めていたが、人間の生活を脅かすには十分な威力を未だに持っていた。台風の最初の一撃をくらった台湾総督府は、台風によって米軍の大規模空襲以上の損害を日本帝国にもたらしたと東京に報告していた。 東シナ海の実質的支配者たるアメリカ海軍も、十数隻の艦艇が損害を被り、うち何隻かは沈没の憂き目に合った。この台風は、日本人が送り込んだ最強のカミカゼであると彼らは後に述べていた。 いまや米国製潜水艦の浴槽、そして日本製船舶の墓場となった東シナ海も、行き交う艦船も飛び交う航空機も殆どなく、いかに戦争といえども自然現象には膝を屈するという法則に支配されているかに見えた。 しかし当然ながら、人間という救われ難い種族は嵐であっても戦争を止めようとはしなかった。逆に、嵐を利用して成果を上げようとしているものもいた。特に、戦争に負けかけている日本人にとって、この嵐は米軍の干渉を受けずに行動できる貴重なチャンスをもたらしてくれるものと考えていた。 台風で大時化の東シナ海でも、嵐を遮蔽物として利用して日本へ向かおうとする1隻の軍艦があった。排水量で二千トンにも満たない小型艦で、大時化の海に翻弄され絶えず波をかぶりつづけながらも、旭日旗を力いっぱいはためかせながらひたすら東へと向かっていた。彼女に名前はなかった。このタイプで八隻目に計画された艦なので、八号と呼ばれていた。 正式名称を、第八号一等輸送艦という。彼女の使命は、上海から日本へあるものを運ぶことであった。 八号機輸送艦は、木の葉のように大きく弄ばれていた。ピッチング、ローリング、ヨウイングと、ありとあらゆる種類の揺れが彼女を襲った。軍艦の凌波性能に関しては世界トップの日本海軍艦政本部が設計した艦だけあって、台風の只中を航行しているにもかかわらず、彼女は沈む気配も見せず安定した速力を発揮していた。ただし、それは艦本体の話であって、その中にいる人間にとっては、この嵐が地獄の苦しみであることはいかなるフネにも平等にやってきていた。 このような悪天候、しかも夜に攻撃してくる敵などあるわけもなかったので、八号輸送艦の半数以上の乗員は強制的な休息を与えられていた。しかし、多くの乗組員にとって休息は任務以上の苦痛となっていた。艦が前後左右滅茶苦茶に揺られている状態で眠れる人間はさほど多くない。ヴェテラン・シーマンですら船酔いにかかる状況では、休息よりも、任務のほうが気が休まるのだ。少なくとも、任務の間だけは船酔いを忘れられるからだ。 上甲板は波をかぶりつづけ、その余波が艦橋にも容赦なく襲いかかった。波でガラスが割れる危険があったため艦橋のガラスは全て取り外されていた。そのため、艦橋の中にも波と雨が絶え間なく振り注いだ。艦橋に詰める艦長以下の当直員は、全員ゴムびきの河童を着込み、首に手拭を巻いていた。それも殆ど用をなしていなかった。周囲は炭をひいたような漆黒の闇で、視界は限りなくゼロに近かった。艦橋の中も暗く、海図台の明かりが微かに漏れて、それが艦橋内を薄く照らしていた。 「いやあ艦長、こりゃまた手荒い嵐ですね。さっきからピッチングの度にカラカラ音がすると思ったら、ありゃスクリューの空回りの音ですね。私はこんなすごい揺れかたは生まれて初めてですよ」 先任将校の大島大尉がうれしそうに言った。白い歯が夜目に鮮やかに浮かび上がる。 「なあに、このくらいじゃまだまだ大丈夫さ。俺が少尉の時、水雷艦に乗ってこの位の台風のなか航行したことがあったが、そのときも艦はぴんぴんしていたよ。このフネはもっと大きいから、大丈夫さ」 艦長の山倉少佐もなぜか明るい声で応じた。 (船乗りって奴はどういう神経をしているのだろう) 根岸技術中尉は、船酔いで卒倒しそうになりながら思った。この艦の積載物の取り扱い責任者である彼は、正規の乗員ではなく今回限りの便乗者である。艦長や先任将校のように洋上になれていない彼にとって、今回の航海は地獄としか言いようのないものであった。もともと船には弱い体質の上にこの嵐。本気で死ぬかも知れないと思うくらいの船酔いに苦しんでいた。便乗者としては本来なら船内で休むべきであったが、艦内に充満する反吐の匂いが船酔いを助長するので仕官の特権を利用して艦橋に潜り込んでいたのだ。艦長と先任将校も同情し、艦橋に留まるのを許可している。 「大丈夫かね、中尉? 艦橋なら艦内よりは楽だろう?」 艦長が訊ねた。大丈夫なわけないだろう。そう、のどまで出かかったが、代わりに反吐がこみ上げた。持参の袋に吐く。さんざん吐いたせいで、もはや胃液しか出なかった。 「気にするな、皆そうなるんだ。俺だって少尉候補生のころはよく吐いたよ。ゲーゲーゲーゲー、胃液も出つくして、最後は血まで吐いたよ。どうせ吐くなら、何か食って吐いたほうが楽なんだが、酔っていると何も口に入らんのだな。だが人間現金なもので、入港して陸に上がると船酔いもけろっと治って、食欲も出てくるのだから不思議だね」 大島大尉が明るく言った。根岸を気遣っての発言だったが、根岸は大島の好意を受け止める余裕はなかった。 「中尉」 艦長が言った。その声音は先ほどのものとは違い、真面目なものであった。大丈夫とは思うが、積載物の荷崩れの恐れはないな? たとえ船倉に入れられた物でも、片方に偏ったら重心が変わって転覆する恐れがある」 「大丈夫です。たとえ転覆しても荷崩れしないように固く固縛してあります。ご安心下さい」 船酔いでヨレヨレの根岸でも、この時ばかりは技術士官らしくはきはきと答えた。 「そうか。なら、安心だな」 根岸は艦長にも、他の乗組員にも伝えていなかったが、積荷の固縛が必要以上に入念に施してあったのは、別に嵐を恐れたからではなかった。本当の理由は、例え原石とはいえ、強いGを浮けた鉱石がぶつかりあうことによって破壊的科学現象が起こりうる可能性が皆無ではないためであった。 「もっとも、そっちのほうが幸せかもしれないな。あるいは米軍に船ごと沈められるほうがましかも。どちらにしても、この船酔いよりは楽な筈だ) また熱く、酸っぱい液体が食道を駆け上がってきた。根岸は慌てて袋に口を突っ込むと、恥も外見もなく唸り声をあげて物を吐瀉物を吐き出した。 「しくじったのか?」 「ああ、揚子江河口で網を張っていたら、目標の輸送艦は護衛艦(エスコート)と対潜哨戒機を連れて来た。深度の浅いあの海域では潜水艦は不利だ。深海に逃げられないからな」 「アレン・ダレスは単艦で向うと伝えてきたぞ。護衛艦を連れているなんて聞いていない」 「OSS(CIA)が我々に教えた内容に嘘はない。護衛艦は外海に出るまでしかつかなった。東シナ海に出てからは単艦で日本に向っている。知っての通り、東シナ海は大荒れで潜水艦や航空機による攻撃は不可能だ」 「では、このまま撃沈させるのは不可能なのか?」 「まだチャンスはある。気象班に言わせると、明朝になればキュウシュウ近海は波は高いままだが、雲は晴れるそうだ。サセボ到達直前になるが、航空攻撃は可能だ」 「しかし、スプルーアンス大将の第五艦隊は台風(カミカゼ)を恐れて全ての空母(キャリアー)を引き連れて南に待避中だ。海兵隊の航空機ではキュウシュウまで足が足りない。陸軍に頭を下げて沈めてもらうか?」 「馬鹿なことを言うなよ。あの輸送艦の積荷が何かよく考えろ。日本が降伏した後の占領軍司令長官はマッカーサー元帥だぞ。ジェネラル・マックに積荷がばれたら、引き上げて勝手に原爆を作ってソ連と戦争を始めかねない」 「なら、諦めるのか?」 「こっちには最後のカードがある。先月損傷した『サラトガ』が、傷が癒えてグアムから護衛艦と共に急行中だ。他に空母はないが、レディ・サラなら一隻でどうにかしてくれる筈だ。あそこのパイロット達は夜間攻撃の訓練を受けいるヴェテラン揃いだ。しかも、全て急降下爆撃機(ヘルダイバー)だ。雷撃機(アヴェンジャー)では波が高くては攻撃できないからな」 「チャンスは一回のみ、か」 「成功させなければならない。日本人は自暴自棄になっている。そんな連中に核兵器を持たせたら何をするかわからない。なんとしても防ぐのだ」 東の空から徐々に太陽の光が夜の帳を駆逐するにつれ、雨脚が途絶え、雲も晴れ、波も穏やかになり始めた。台風は北に去り、天候は回復に向かいつつあるのだ。八号輸送艦が難破する可能性はなくなりつつあったが、それとは反比例に米軍の攻撃を受ける可能性が高まりつつあった。波の高さからして、潜水艦の攻撃は受けずに済みそうだが、空襲を受けるおそれは十分にある。 第八号輸送艦の位置は、福江島大瀬崎の南西二十海里。順調に航行できれば、あと五、六時間で佐世保に到着できる位置だ。 そう、順調に航行できれば。 八号輸送艦を襲い続けた波浪も少しづつ威力を弱めつつあり、それに伴って根岸技術中尉の船酔いも楽になりつつあった。 嵐を抜けると、さすがに艦橋にも安堵のため息があちこちからもれた。山倉艦長は、午前五時をもって当直の交代を実施した。一晩中艦橋に詰めっぱなしの艦長も、根岸中尉を誘い艦橋直下にある艦長休憩室で、つかの間の休息(ティーブレイク)をとった。 狭い休憩室に根岸中尉を中尉を招き入れ、従兵に熱いお茶を持ってこさせた山倉艦長は、合羽と、すっかり水を含んだ上着を脱ぎ、ありがたそうにお茶とゆっくりと啜った。根岸も相伴にあずかる。しかし根岸は、艦長が茶を飲むためだけに自分をここに招いたわけではないことは分かっていた。山倉艦長は茶を飲み干すと、煙草に火をつけてから、おもむろに切り出した。 「中尉、そろそろ教えてもらえないだろうか。一体本艦は何を運んでいるんだ? 戦局が厳しくなり、支那から本土への航路が殆ど断ち切られている今、ここまでしてわざわざ運ぶ必要のあるものとは何なのかね? 鉄やアルミではないはずだ。本艦の積載量はせいぜい三百トン。そのくらい運んだところで何も変わらない。もっと希少価値の高い物の筈だ。でなければ腑に落ちない。違うかね?」 山倉艦長はそう言うと、根岸中尉の表情を窺った。根岸中尉は全く表情を変えず、テーブルに視線を落としたままだ。口を開こうとしないので、山倉は続けた。 「本艦は帝国海軍が保有する最も高速の輸送艦だ。強行輸送が主任務だけに足は速いし、武装も強力だ。このような荒天を突けば、上海から佐世保への突破も十分に可能だろう。単艦で、全速で行けばの話だがね。だが、今回はそれだけじゃない。君も本艦の武装を見たろう? 今までとは比べ物にならないほど強化されている。機銃は二倍。爆雷は三倍。さらに新兵機の多連装対空噴進弾(ロケット)。知っているかね? 対空噴進弾はこの前沈んだ大和ですら装備していなかった代物だ。それが、二基も取りつけられた。駆逐艦でも海防艦でもなく、ましてや戦艦でもないただの輸送艦にだ。艦長は本来なら予備士官か特務士官が勤めるはずなのに、俺は海兵学校(えだじま)出身だ。先任も然り。他の士官はひよっこは一人もいない。下士官も徴兵されてきた連中は殆どなく、実践経験豊富な志願兵ばかり。第二支艦隊中からわざわざ選ばれてきた連中だ。おかしいと思って当然だろう? ウチの兵隊は今の海軍では貴重なヴェテランぞろいだ。そんなのを戦闘艦ではなく輸送艦に乗せて佐世保へ物資を運べときたもんだ。積荷の中身は極秘。おまけに積荷を監督する技術士官までついてきた。ここまでくれば、護衛艦がつかないのがおかしいくらいだが、このフネよりも足の速いのが一隻もないと理由で理解できる。……なあ根岸中尉、教えてくれよ。想像するに積荷は鉱石らしいが、それから何ができるんだ? 此の戦争の戦局を変えることのできる画期的なものなのか? まさか、金塊じゃあるまい?」 根岸は顔を上げると、ようやく口を開いた。 「艦長、私は司令部より積荷の中身は誰にも明かしてならぬと厳命されております。艦長はどのような趣旨から執拗に詮索されるのでしょうか? 艦長としては、積荷の中身について詮索しないのも任務のうちではないのですか? 好奇心や猜疑心からお尋ねになるのは、利敵行為になるのではないのでしょうか?」 「これは手厳しいな」 山倉は苦笑いを浮かべると、潮を浴びてべたつく顔を手ぬぐいでぬぐった。「君、この戦争で日本は勝てると思うかね」 突然の問いにびっくりした根岸は、つい本音を漏らしてしまった。 「負けます。こんな状況になったら、もう勝てません。……あ」 「気にすることはない。私も同意見だ。我々だけではない。先任も、他の士官も下士官兵も、薄々感づいている。もう、日本は終わりだ。戦局を挽回することは不可能だ。勿論上層部も知っている。これは、海相の副官をやっている俺の同期から聞いた話なのだが、政府もソ連を仲介にして和平交渉に入ろうとしているらしい。つまり、今さら国の為に命を投げ出しても、無駄なのだ。俺や先任はいい。俺達は職業軍人だ。だが、他の連中は違う。彼等にはそれぞれ歩むべき違う道がある。彼等にとって、命を張ってまでこの荷物を運ぶ理由は何なのだ。国のためか? 家族のためか? はたして積荷に二百人の将校の命を投げ出す価値はあるのか? 積荷に、二百人の命以上の価値はあるのか? なあ中尉、教えてくれよ。俺達は命以上の価値の積荷を運んでいるのか? それとも、馬鹿馬鹿しいものを命がけで運んでいるのか?」 根岸は、艦長の目を決して見ないようにしながら、ゆっくりと問いに対する答えを言った。 「……本艦の積荷はタングステンです。タングステンで作られた砲弾は、装甲にたいして従来の同じ口径の砲弾よりも数割増の威力を発揮することが出来ます。つまり、タングステン砲弾は敵戦車に対して非常に有力な砲弾なのです。このタングステンは本土決戦の為の砲弾製造に使われ……」 「そんな嘘はどうでもいい。真実を教えて欲しいのだ」 根岸は、嘘が簡単に艦長に見抜かれたことに狼狽しながらも、表情に出さないように努力しつつ反論した。 「お言葉ですが、どうして嘘だと決めつけられるのですか?」 「同じ嘘を司令部の参謀長にもつかれた。タングステン鉱山は満州のも多くあり、わざわざ上海から運ぶ必要がない。満州からプサンに鉄路で運べば危険も少ない。それに、計算したのだが、積荷はタングステンよりも質量の重い金属だ。鉱石なのにも関わらず精製されたタングステンよりも重い」 根岸は、艦長の鋭い指摘に、これ以上嘘をつき続けられないことを悟った。 「さあ、教えてくれ。積荷の中身は何なのだ」 「……仰る通り、積荷はタングステンではありません。あれは……」 根岸が職業的義務と人間的良心との狭間で葛藤し、人間的良心が勝利を収めかけていたとき、休憩室のドアが激しくたたかれ、息せき切った若い兵が駆け込んできた。 「艦長へ報告! 敵機発見! 機数一! 発見されました!」 「中尉、その話はまた後で!」 艦長は報告を聞くと、上着を急いで羽織り、艦橋へ飛び出して行った。根岸も慌ててそれを追う。 「敵味方不明機発見! 七時の方向! 距離1万5千!」 右舷見張り員の叫び声を聞き、艦橋に詰めていた先任将校の大島大尉は右舷スポンソンに飛び出すと、見張り員の指差す方向に双眼鏡を向ける。目標はすぐに見つかった。大きく旋回しながらこちらに向ってくる。青い塗装を施された単発機だ。翼には、白い星がついているのがはっきり見えた。畜生、敵機だ。 「他に敵機は!」 大島の怒鳴り声に見張り長が応じた。 「いません。単機のようです」 「偵察だな。発見された。機種は?」 「急降下爆撃機です。艦載機ですな」 大島の問いにヴェテランの見張り長が答える。 「艦長をお呼びしろ! 艦長休憩室にいる!」 大島の命令を聞いた伝令が艦長を呼びに走った。一分も経たぬうちに山倉は大島の傍らにやって来て、双眼鏡で敵機を確認した。 「発見されたな。ひと空襲ありそうだ」 「艦長、総員戦闘配置を下令しますか?」 大島が訊ねた。 「えん、そうだな」 山倉が言い終わるのをまたず、大島は艦橋に向って怒鳴った。 「総員戦闘配置! 合戦準備! 対空戦用意! 最大戦速即時待機!」 それを聞いた当直の航海士がブザーを鳴らし、伝令管で命令を伝える。艦全体が火事場のような大騒ぎになり、全ての将校が予め定められた持ち場へとすっ飛んで行く。艦内の全ての水密区画が閉鎖され、全ての武器に実弾が装填される。 「艦長、電波封鎖は?」 大島は訊ねた。八号輸送艦は呉松出港以来、敵に位置を探知されるのを防ぐために全ての電波の発信を禁じていた。それも発見された時点で意味をなさなくなっていた。 「解除する。電探をまわせ。先任、佐世保鎮守府、第二遣支艦隊、海軍総隊宛に無電だ。主文、『我、敵艦載機ノ接触ヲ受ク。救援ヲ請ウ』以上だ。時間、位置を忘れるな」 「了解しました」 大島は艦長の言葉を頭に叩き込むと、艦橋に入り電探室に封鎖解除を、通信室に無電の発信を艦内電話で伝えた。それが終わると、艦長の傍らには戻らず、艦橋に留まった。艦の最高幹部のどちらかが艦橋にいないと、いざという時に対応できないためであった。 艦橋にも、ここが配置の将校が次々と入ってきてそれぞれの持ち場についていた。艦の各所からも次々と報告が入る。 『旗艦室、総員配置完了』 『こちら砲術長、射撃準備よろし』 『内務長より艦橋へ、水密区画閉鎖完了』 『電探室より艦橋。当該敵機以外の敵影認められず』 報告を受けながら、大島は頭の中にあるチェックリストを埋めていった。そして、艦尾の応急操舵室からの報告を受けると、リストがすべて埋められたことを確認し、艦橋に戻ってきた艦長に報告しようとした時、背後から声をかけられた。 「あの、先任、私はどこにいればよいのでしょうか?」 根岸技術中尉だった。士官らしくないやさしげな顔に、緊張の色を浮かべている。彼は便乗者であるため戦闘中は何もすることがない。大島は手の足りない部署を探そうとしたが、すぐに打ち消す。足手まといの士官なんて邪魔なだけである。適切な対処を考えあぐねていると、艦長が先に言った。 「戦等記録をつけさせればよかろう。主計科の連中も応急処置のほうで忙しいはずだから」 どの艦も、戦闘詳報の記録が義務づけられているが、戦況の悪化と人手不足から記録をつけていない艦も多い。この艦も戦闘詳報の記録者は空席のままであった。 「了解です。根岸中尉、艦橋にいて戦闘記録をつけて欲しい」 大島は言った。技術士官らしいもっと技術的な部署につかされると思った根岸は面食らった表情を浮かべた。 「何、難しく考えることはない。自分の周りで起こっている事実を、時間をおって書いていればよいのだ」 艦長はやさしく言った。 「……了解しました。根岸技術中尉、戦闘詳報を記録いたします」 「よし、頑張ってくれ。ノートと鉛筆は海図台にある。環境の後ろの方に座っていてくれればいい」 大島はそう言って根岸を配置につかせると、先任将校としての義務を果たすべく、艦長に向って報告した。まるで連合艦隊司令長官にたいする如く背筋を伸ばし、直立の姿勢をとる。 「艦長、総員戦闘配置、対空戦用意ヨロシ! 合戦準備完了しました」 「よろしい。皇国の興廃この一線にあり、だ。なんとしても積荷を日本に届けるのだ」 その言葉を聞いた根岸の心はざわめいたが、目先の任務を考えることによってそれを落ち着かせようとした。 「ビックフット・リーダーより各機へ。敵艦を発見(タリー・ホー)! いつもの手順でやるぞ。各中隊ごとに各個攻撃だ。敵は輸送艦一隻。あとから来る連中に獲物を残すんじゃねえぞ! 各中隊攻撃体勢に移れ!」 「了解! リー中隊スタンバイ」 「スコアは俺が頂くぜ。ローグ中隊準備完了!」 「キャットシット・ワンより、ビックフット・リーダー。付近に敵機なし。引き続き警戒に当たる」 「頼むぜ。小さなお友達(リトル・フレンズ)! よーし、みんな順番は守れよ。レッツ・ショータイム!」 「撃ってきやがった!」 「おい、本当に輸送艦か? 駆逐艦の間違いじゃないか?」 「いや、確かに輸送艦だ」 「なんて火力だ。輸送艦にはとても思えない」 「怖気づくなよ。ヤマトのほうがすごかったじゃないか。ヘルダイバーの辞書に恐怖と言う言葉はない。よーし、いいな? 突撃!」 「糞(シット)! 敵は手練さぞ。うまい回避された」 「誉めてる場合か。糞、全部外れた!」 「リー中隊、後からやってみろ」 「了解。……いくぞ、みんな。突撃!」 「ニップのケツにぶち込んでやる!」 「何だ!?」 「ロケットだ! ジャップめ、ロケットをつんでやがる!」 「ああ畜生、外れた!」 「やられた! ジーザスクライスト!」 「ヴィリーがくわれた」 「糞、黄色人種の野蛮人め!」 「誰と誰がやられた?」 「ヴィリーと、マッカドゥーと、ヘンドリックだ」 「三機もくわれたか、畜生め」 「ローグ中隊、君達は前から攻撃しろ。敵のロケットは後ろについているから前は狙えない筈だ」 「了解! 野郎ども、戦友の仇は俺達で取るぞ! ローグ中隊、突撃!」 「よし、今だ! ファイア!!」 「畜生! 全部避けれた!」 「敵はすごい手練れだぞ」 「畜生め! 絶対仇は取ってやるぞ」 「ビックフット・リーダーより『サラトガ』へ。第一攻撃失敗命中ゼロ、損害四.敵はものすごい手練れだ。従来の同型輸送艦よりも対空火器が強力だ。特に艦尾のロケットは強力だ。後続は特に注意してくれ。以上だ」 「頼むぜ。第二時攻撃隊がしくじったらもう後がないんだ」 「敵機、去って行きます!」 見張り員の歓声に満ちた声が艦橋に響き渡った。 「どうにか凌ぎましたね」 大島がほっとした表情で言った。 「ああ。敵が各個にやって来てくれて助かったよ。一遍にこられたら対応しきれないからね」 山倉も顔をほころばせた。「それと、敵艦が艦尾から攻撃したのが一度きりでよかった。対空噴進弾は一度撃ったら再装填に時間がかかるから、その間は艦尾が無防備になる」 「根岸中尉、戦闘結果を報告してくれ」 大島の命令を受け、根岸は必死に書きとめた内容を要約して報告した。 「マルロクヨンマル、敵艦載機の空襲を受く。敵機は戦爆連合の約六十機。敵急降下により三度にわたる襲撃を受けるも、応戦よろしきを得て被弾ゼロ、至近弾五。至近弾による浸水がありしも、軽微にて戦等航行に差し支えなし。本艦があげし戦果、敵機六機撃墜確実。撃墜不確実三機。以上です」 「初めてにしては上出来だ。この調子で頼むぞ」 「ありがとうございます」 艦長の発言の後半を聞き、大島が訊ねた。 「艦長は第二波が来ると?」 「来るだろう。敵は狙った獲物は逃さない。沈めるまで何度でもやってくるさ。それに、多分本艦は敵に狙われている」 艦長の言葉に、大島と根岸は驚いた。 「考えても見たまえ。呉松を出港してしばらく本艦は敵潜の追尾を受けた。本来ならば、あのような海の浅い海域では行動しない。それに。小さな本艦をわざわざ追尾するのも解せない。もっと大きくて重要な目標は他にもあった。それから今朝、夜明け早々に敵機に発見されるのも偶然とは思えない。機密が漏れて敵は本艦が重要物資を輸送中なのを知っていると考えるのが妥当だろう。どうやら本艦が運んでいるものは、敵がそこまでして撃沈する価値のあるものらしい」 根岸は、大島のいささか刺のある視線が自分に注がれるのを感じた。八号輸送艦に乗り込む二百三十人の将校の中で唯一積荷の中身を知る男は、唇を固くかみ締め、再び始まった守秘義務と良心との戦いを黙ってやり過ごそうとした。 「なあ根岸中尉。君もそろそろ……」 大島が根岸を説得しようとしたとき、電話番をしていた兵が叫んだ。 「電探室より艦橋! 敵機多数接近中! 方位五時、距離三万!」 「総員対空戦闘! 合戦準備を為せ! 対空見張りを厳となせ! 何も見落とすなよ!」 山倉艦長は間髪おかずに命令を下すと、もう根岸のほうを振り向こうとしなかった。 「艦長! 対空射撃準備完了! いつでもいけます!」 各部署の報告を取りまとめていた大島が報告する。 「敵機視認! 敵機約六十! 敵編隊は本艦を包囲するように四手に分かれつつあり! 距離二万!」 見張りの報告を受けると、艦長と大島は表情を曇らせた。 「敵も馬鹿じゃないな。ちゃんと学習しているようだ」 「四方から同時に攻撃されたら、厄介ですねえ」 「完全に同時と言う訳ではあるまい。わずかな時間差をおいて立て続けに来る筈だ。何とか操艦で交わしきれれば良いが」 「艦長、操艦はお任せします。私は対空射撃を指揮しましょう」 「頼むよ」 「艦橋より砲術長へ。俺が撃って良いと言うまで撃つんじゃないぞ」 「右舷の敵、突撃してくる!」 「機関全速!」 「テディベア・リードより各機へ。さっき言った通り、時間差一斉攻撃でいくぞ。敵艦後部のロケット砲に注意しろ! いいな、俺たちが最後の槍だ。俺たちの後続はいない。なんとしても沈めるんだ。あんあ小船、一発当たれば沈むぞ! みんな、ワールドシリーズ最終戦のつもりでやれ! 散開!」 「それにしても、ちっちぇえ船だな。あの船が重要目標には見えないがねえ」 「無駄口を利くな。各中隊長、準備できたか(アー・ユー・レディ)?」 「マイティジャック中隊、準備よろし」 「バットカルマ中隊、いつでも来い」 「こちらオメガ中隊、早くしろ」 「よしl、攻撃手準はさっきも言った通り、リトルフレンズのマイティジャックがまずロケット攻撃で敵の防空網に穴をあけてくれ。その後にテディベア、オメガ、バッドがルの順で攻撃する。間隔を空けるなよ。ジャップを地獄のパーティに招待して差し上げろ。……よーし、いくぞ! GO! GO! GO!」 「マイティジャック、突入!」 「糞、なかなか素敵な対空砲撃だぜ」 「もう少しだ、……よし、全機、発射!」 「敵機、噴進弾を発射!」 「機関全速後進、面舵一杯!」 見張り員の報告に、山倉は素早く対応した。十二機のコルセア戦闘機が発射した総計九十六発のロケット弾は、盛大に白煙を上げながら直進してきていた。 八号輸送艦は必死にターンを踏み、魔の手から逃れようとしたが、いかんせん数が多すぎた。艦長の対応よろしきを得、大多数の火矢を回避することに成功したが、三発の幸運なロケット弾がひ弱な輸送艦の皮膚を食い破った。 「被弾!」 「損害報告!」 「右舷ダビットに一発命中! カッター大破! 死傷者無し!」 「右舷二番三連装機銃座に二発命中! 銃座沈黙、全員戦死!」 「応急処置急げ!」 「敵機第二編隊突っ込んでくる! 十時の方向!」 「取り舵一杯」 山倉艦長は、敵の狡猾さに舌を巻いた。艦を右に回頭させておいて、次は左に曲げるような操艦を強制する。しかし、艦には右へのモーメントがかかっていて、すぐには曲がれない。一度や二度は避けられるかもしれないが、三度四度となると難しい。敵ながら天晴れな攻撃法であった。山倉の脳裏に、結婚してから数えるほどしか会っていない新妻が浮んだが、すぐに打ち消す。戦場では一瞬の判断の遅れが命に関わるからであった。 「糞、あのジャップなかなかやるぞ。俺たちのロケットを殆ど避けやがった」 「テディベア、突撃!」 「良い操艦だ。キレがある」 「敵を誉めてる場合か」 「全機投下!」 「バッドカルマ、オメガはスタンバイしろ。ミスは許されないぞ」 「分かってるって」 「糞! 畜生! 全部外した!」 「バッドカルマ、オメガ突撃! 神のご加護のあらんことを(ゴッド・ブレス・ユー)!」 第二編隊の攻撃を辛うじて避けた直後、見張りの絶望的な絶叫が山倉の耳に届いた。 「敵第三、第4編隊同時に突っ込んでくる! 一時と七時の方向!」 「先任!」 「後から来る奴らは噴進弾で対処可能ですが、前方から来るやつらは対処できません!」 「面舵一杯、全速前進!」 山倉は絶望的な思いになりながらも命令を下す。回避を続けたせいで速度が落ち、舵の利きが悪くなっていた。正面から来る敵には対処出来そうも無かった。双方が距離を詰めあうため、リアクションタイムが著しく短い。 「敵機急降下!」 山倉は拳を握り締めた。心の中で妻に詫びる。佐和子、すまん。 「よし、ジャップは罠にかかったぞ!」 「やれるぞ! 今ならアヒルみたいに動きが鈍い」 「もうちょっとだ! もう少し左! よし、いいぞ! よし、全機……うわあ!」 「どうした?」 「リードがくわれた!」 「ミートボールの戦闘機!」 「糞、ジャップの戦闘機だ!」 「リトルルフレンズは何をしているんだ!」 「こいつ、ジーク(ゼロ)じゃ無いぞ!」 「後にプロペラがついていやがる! 新型機だ!」 「助けてくれ! やられる!」 「こいつ、滅茶苦茶速いぞ!」 「なんだこいつは、せっか……」 「どんどんやられて行くぞ!」 「メイディ、メイディ、脱出する!」 「こちらボッドカルマ・リード。テディベア・リードは戦死した。俺が指揮を執る。全機逃げるんだ。リトルフレンズは撤退援護」 「畜生! もう少しだったのに」 山倉艦長は、呆然と空を見上げていた。山倉だけではない、大島も、根岸も他の将校も、幻を見るかのように空を見ていた。 「通信室より艦長へ! 三四三空より入電。『我、させぼ入港マデ貴艦ヲ援護ス。安心サレタシ』以上です」 「まさか援軍がくるとは思いもよりませんでしたね」 「一応救援を要求したが、まさか本等に来るとわね。しかもあれ、新型機だろ?」 「ええ、おそらくは。すごい機体ですね。ペラが後ろについてますよ」 「何はともあれ、助かった。そういうことかな、先任?」 「ええ。どうやら生きて祖国の土が踏めそうです」 敵機を追っ払った新型戦闘機が、バンクしながら八号輸送艦の傍らをフライトパスして行った。甲板にいる全ての乗員が一斉に手を振った。勿論、艦橋の山倉と大島も帽子を力一杯振っていた。 祖国の山々がどんどん大きくなり、入港が近づくにつれて、乗組員の緊張の糸はだんだん緩んできていた。特に激しい空襲の後だけあって、多くの将校は呆然と祖国の大地を眺めていた。艦橋左舷の見張りを勤める若い兵も、いささか気が緩んでいた。彼の頭の中は上陸してから何を食べるか、どこに女を買いに行くかに占められていたが、職業的擦り込みから、目線だけは常に海面に向けられていた。 そして彼の目線に、何かが捕らえられた。さして注意もせずにそれを注意した兵は、その物体の持つ意味を理解すると、絶叫した。 「なあ、根岸中尉。そろそろ教えてもらってもいいだろう?」 そう、山倉艦長が言い出したのは、佐世保入港まで後一時間足らずとなった時だった。任務を終えたという安堵から、開放的な気持ちになっていた根岸は、山倉の問いに答えようとした。 「ええ、艦長。この積荷の中身はですね……」 「左舷十一時に浮遊機雷! 距離百!」 「面舵一杯!」 艦長は反射的に命令を下し、大島と共に左舷スポンソンにすっ飛んで行った。 「艦長! あれは友軍の八九式じゃあ」 「繁留機雷がきれたのか」 そんな会話が根岸の耳に入った。 「糞、離れない」 「近づいてくるぞ!」 「全速後進!」 「間に合わない!」 「総員、対衝撃防御!」 艦長の言葉にかぶさるように、大音響と、すさまじい衝撃が八号輸送艦を襲った。 次の瞬間、根岸は海面に投げ出されていた。周囲には重油が浮いていて、真っ黒な人間らしき物体が沢山浮いているのが見えた。頭がジーンとしびれるような感覚と、耳鳴り以外は、根岸は傷一つなかった。根岸の背後で音がするので振り向いてみると、ゴボゴボと音を立てて、八号輸送艦が艦首を上にして沈んで行くのが見えた。何人かが沈没の渦に巻き込まれて沈んで行く。 近くにあった木切れにつかまり、援助を待っていると、根岸の目の前を生きている人間とも死体とも判別しにくい物体が流れてきた。目がぎょろっと動くことからどうやら生きているようだった。 「根岸中尉じゃないか」 声の主は間違いなく先任将校の大島大尉のものであった。 「先任! ご無事でしたか!」 根岸が大島を抱きとめると、大島の焼け焦げた皮膚がズルリとむけた。 「無事じゃネエよ。片足吹っ飛んじまったし、体も言うことをきかねえ。もう駄目だね」 「そんなこと言わないで下さい! 気を確かに!」 「くだらねえよなあ? 台風と敵機の空襲乗り越えてきた俺達が、味方の機雷を食らって沈むんだぜ。馬鹿馬鹿しいよなあ」 「味方の、ですか」 「おう。おおかた、機能の嵐でどっかの繁留機雷がきれて流されてきたんだろうよ。殺意の無い攻撃って言うのはたち悪いワ。味方の機雷じゃ誰を恨めばいいのかも分からない。やりきれないよ」 「ああ、艦長は?」 「死んだよ。即死だった。目の前で沈んで行った」 「そうですか」 「おう、そういえば中尉、あの積荷の中身は何だ。あれを知らずして死んだら、死んでも死にきれねえ」 「中身は、ウラニウムです」 「それから、何ができる」 「爆弾を作ろうと考えていたそうです。一個の爆弾で一つの都市が壊滅するぐらいの威力を持っているそうですよ」 「なるほどね。それなたわざわざ無理して運ぶ甲斐のある代物だな。ま、結局無駄になっちまったけどね。さあって最後の心残りも聞いたし、一足先に逝っちまった艦長にもこのことを伝えに行って来ますか」 「先任、しっかり」 「邪魔しないでくれよなあ。せっかく死ねるんだから」 そう言うと大島は目を閉じ、眠るような穏やかな表情でこときれた。 根岸は、自分も眠るまいと必死に自分を励ましながら救助を待った。救助を待ちながら、八号輸送艦を襲った悲劇の馬鹿馬鹿しさと偉大さに、涙し、怒り、呆れ、笑った。 根岸中尉を含む約百五十名の生存者は、沈没後三十分ほどして駆け付けた海防艦に救助された。 戦後民間に復帰した根岸は。母校の京大に戻り、原子物理学の研究に一生を費やした。戦後二年ほどの後、大島聡子という兄を含めた身寄りを全て失った女性と結婚したが、またこれは別の物語である。 (終わり) |