『嘘』 片山凛



 部屋のドアを開けると、窓から差し込む光によって、部屋全体が茜(あかね)色に染まっていた。
 机の上の茶色い珈琲カップ。椅子に無造作にかけられた紺色の上着。そんな部屋の情景を、西日は穏やかに照らしてくれる。
 そう、この部屋は昔のまんま。
 あの時から全く時間が流れていない。特に、夕陽に照らされ、茜色に染まると、私の中に、過去の時間がなんともいえない感情とともに流れ込んでくる。なぜこの色はこんなにも過去のことを私に思い出させるのだろう。
 私は思わずその場にしゃがみこむ。日の光とともに入ってきたやさしい風が部屋のドアをパタンと閉ざし、少しの間だけ私を慰めてくれるのが、私のそんな思いはドアのように簡単には閉じてはくれない。
 私は風に頬を撫でられながら、そのまま椅子の背もたれに、思い出の中に、顔をうずめた。


              *

 朝の浜辺は白い靄(もや)につ積まれていた。こんな早くに海辺に来たのは何年ぶりだろう。辺りはシンとして、波の音だけが、耳を通して伝わってくる。
 昨日、私はそのまま椅子にもたれて眠ってしまった。そして夢をみた。夢の中で彼はやさしく私に笑いかけていた。何も言わずに、ただ、私を見つめて。
 現実も何も言わずにただ笑っていてくれれば良かったのにと思う。
「大丈夫だよ」
 そういった、彼の微笑んだ姿。その目の奥の悲しい瞳に、なぜ私は気づかなかったのだろう。いや、なぜ彼は私にその苦しみを伝えてくれなかったのか。彼にとって私はそんなにもちっぽけな存在だったのだろうか。
 この問いかけは目の前の白い靄のように、私の中で拡がり、けして消えはしなかった。



              *

 月明かりが窓から煌々と照らす中、男はそっとベッドから起き上がった。そして少し咳き込み、すっかりやせ衰えたその肩の上に上着をかけ、飲みかけのワインの瓶を片手に、静かに部屋から抜け出した。辺りに電灯はなかったが、海辺までの道は月明かりが導いてくれた。やさしく照らす光。ふと、彼女の顔が目に浮かび、星のように瞬いて、すぐに消えていった。
 小波(さざなみ)の音が聞こえてくる。
 海は、もう近い。



              *

 物思いにふけってかなり時間がたったらしい。相変わらず波は単調な調べを奏でているが、日が昇りだしたのだろう。私の足元にオレンジ色の光が差し込む。そんな光を受けて前方になにか、きらりと光るものがあった。
 硝子の瓶。
 それはコルクを上にして、まるで映画のワンシーンであるかのように白い砂に包まれ、埋まっていた。
 誰かがいたずらにさしたのだろうか。それとも本当に映画のようにどこからか流されてきたのだろうか。
 その硝子の瓶は砂によって、ラベルから下は見ることはできなかったが、埋もれていない部分は、その身に朝日を受け、様々な光を発していた。
 様々な?
 そう、彼も床に臥しながら様々な考えをしたに違いないのだ。不安、恐怖、焦燥、嫉妬、色々な考えが頭の中をよぎったに違いない。それらもまた決して消えることはなく……。
「大丈夫だよ」
 そんな考えを総称しての彼の台詞だったのかもしれない。私に対してというよりも、彼自身に対しての嘘……。それらの考えの中に私は入っていなかった。今、思い返してみると、そう言って軽い寝息をたてて眠った彼の顔は満足そうに見えた。そう、彼の隣にいるのは誰でも良かったのだ。彼の世話をできるものなら誰でも。彼にとって私というものはその程度の存在だった……。
 私は瓶をそっと砂の上に置いて、静かにその場を立ち去った。少し歩いてから、なぜか気になって振り返ってみると、瓶は変わらず白い砂に埋もれている。
 彼との思いでも、時が経てばあの瓶のように埋もれていってしまうのだろうか。
 それとも新しい波が訪れ、どこか遠くへ運んでいってくれるのだろうか。
 しかし、例え現実には存在しなくなったとしてもビンは常に私の中にあり続け、なくなることは、決してない。



              *

 男は肩で息をしながら波打ち際に立っていた。彼は少しの間、行き来する波を見ていたが、しばらくすると手にしていた瓶のコルクを開け、中の液体を海の中へと流した。
 琥珀(こはく)色の液体が一瞬海の色を変えると、男は上着のポケットから何か取り出し、瓶の中に入れた。カランとそれは冷たい音を立て、瓶の底に収まった。
 そして海の上にこぼれた琥珀色が、白い泡の中に吸い込まれていくころ、内側からきらきらと光を発しながら、瓶は夜空を舞っていた。



              *

 海に投げられた瓶はゆらゆらと流されていたが、そのうち元の沖へと押し戻された。そして幾度となく行き来した波によって、徐々に、砂の中に埋もれていった。
 きっとそのうち、瓶は砂の中へと消えていくことになるのだろう。しかし、もし、あの時彼女が瓶を眺めるだけでなく、砂から引き抜いていたら、そして瓶を手に取り、ころころという音に興味を抱き、コルクの栓を開けていたとしたら、瓶の中身の行方も、彼女の考え方も変わっていたに違いない。
 なぜなら、瓶の中には彼女のイニシャルの入った銀の指輪が、彼の想いが、確かにそこに入っていたのだから。
(了)





破天荒 平成12年7月号 文化祭特大号より


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