『仙人』 佳一 むかしむかしの物語。 むかしむかし、中国のとある県のとある山奥深くに、一人の仙人が住んでいた。 彼の名は、誰も知らない。彼自身、覚えてはいなかっただろう。 彼は、 空を舞う小鳥であり、小鳥を誘う空の雲であり、 池に遊ぶ魚であり、魚の吐く白いあぶくであり、 風にそよぐ一ひらの葉であり、柔らかく差し込む木洩れ日であり。 彼は世界であり、世界はまた彼であった。 彼は山奥深くの小さな庵におり、瞑想している。 彼は他の仙人たちと同様に、卑金属を貴金属に変えることができ、空を飛び天上に上ることができた。 しかし、彼はそれをしなかった。 彼は山奥深くの小さな庵におり、瞑想している。 人間にとっては永い永い時間、彼はそうして座っている。 今、市井の喧騒の中で暮らしているのは、彼の孫の孫の孫の孫の……そのまた孫くらいになるだろうか。 勿論、それは彼の血を引く者が、度重なる戦禍や飢餓を逃れていたら、の話である。 彼が、まだ男であった頃。 男は小さな商気に生まれ、父の跡を継いで細々と生計を立てていた。 男には、妻と三人の子どもがいた。 それらを捨てて、男は仙人になった。 その後、彼女たちがどうなったのか、彼は知らない。 流れ矢に当たって死んだ、もしくは洪水や蝗の害にあって飢えて死んだ、と聞いても、彼の心がさざ波立つことはなかっただろう。 磯部に立つ松が嵐に沈んだ猟師の死を悼むこともなく、空を行く雲が旱魃にあい苦しみもがく人々に感じて雨を恵むこともないように。 彼はそうして座っている。 人間にとっては永い永い時間。それが一日、一秒、また、一劫、一刹那であっても、彼にとって何の変わりがあろうか。 彼はただ、自然と共にそこにあった。 ここに、一人の鬼卒がいる。「人」という数詞を用いるのが正しいのかどうか、わからない。彼はこの世に属するものではなく、この世に立ち現れるものだ。そうして彼は、この世とあの世を往来する。彼の役目は、死者の魂を冥府まで連れて行くことだった。 彼はこの「仙人」とういやつが、どうにも好きになれなかった。 やつは、何かを消費するわけでもない。 動植物を殺すわけでもなく、霞を食って生きている。 やつは、何かを生産するわけでもない。 田畑を耕すわけでもなく、ただただ黙って座っている。 気紛れに人に未来を漏らしたり、素質のない人間を仙人にしようものならば、天の運命(さだめ)に逆らうものとして、その魂を冥腑へ引き立てることもできる。 しかし、やつはそれをするわけでもない。 言ってみればやつは、「自然」なのである。 この「自然」は「世界」に置き換えることができる。 「自然」の一部というのではない。やつは「自然」そのものなのだ。 伍長は苦々しい顔で、やつのことは放っておけ、とおっしゃった。 人間というやつは、存在するだけで他の人間と関わり、動植物を食い荒らし、土地を切り取らなければならない。 一つ一つが小さな歯車のように、他の歯車にきりきり動かされ、自分もきりきり動きながら、また他の歯車をきりきり動かしてゆく。これが人間というやつだ。 やつは、人間ではない。 やつが存在することで、何の影響があるだろう。 やつはいわば、一つきりできりきり回る歯車だ。 他に噛み合う歯車もないのならば、その歯車が回っていようが止まっていようが、何の違いがあろうか。 伍長は、お前の言うことは尤もだ、と相変わらず苦り切った顔をしておっしゃった。 しかしだな。お前の言うように、「生かす理由がない」ということは、即ち「殺す理由がない」ということなのだ。 そうして、やつは生きている。 何年、何十年、何百年……鬼卒らは複雑な心情を抱きながら、仙人を遠巻きに窺っている。 ある日のことだった。 仙人は陽気に誘われて、久々に空でも飛んでみようかという気になった。 つと立ち上がって、眩い光に目を細めながら、庵の外へと出ていった。 一つの歯車が噛み合って、きりきりと彼を動かし始めた。 彼は空気でもある。宙に遊ぶことに、何の苦労があろうか。 彼は新緑の中を漂ったかと思うと、風に乗ってふわりと空へ舞い上がった。 運命の歯車は、常にきりきり回っているものである。 同じ頃、天女が三人、地上世界へ水浴みにやってきたところだった。 瓔珞の音も艶やかに、天の香をくゆらせ、薄い衣をまとった乙女たちは、遠くの山陰に一人の仙人が空へと上ってきたのを見た。 その時、天女の心中にふと沸いた悪戯心は、本当に、乙女の本性から出たものだっただろうか。 世にも美しい乙女は、その凝脂で指で挿頭(かざ)していた天上の花を抜きとると、朱唇から吹く息に乗せて、それを仙人の方へと流してやった。 彼は風の流れに身を任せ、空中を漂っている。 彼は新緑とは違う娟(あで)やかな香気に、顔を上げた。 見たこともない美しい花が芳香をまとい、ふわりふわりと舞い降りてくる。 彼は僅かに震える両手でもって、その天からの恵みを受けた。 天上の振り仰いだ彼の目に、三人の麗しい乙女の姿が映る。 芙蓉の面に柳芽の眉――それらは彼に何の感慨も呼び起こさなかった。 瑞々しくうち笑む二つの面は、彼の目には池に咲く蓮に等しく映った。 今一つの面は、麗しい笑みに微かな憂いを含んでいる。 それも彼に何の感慨をも呼び起こさない――――――はずであった。 彼は瞠目した。 その口から漏れ出たのは、呻き声ともつかないながら――彼がかつて妻と呼んだ女の名前だった。 その瞬間、彼は男となった。 男の手を離れた美しい花は、みるみる小さくなってゆく。 仙人を抱いていた空気は、男の横をすり抜ける。 すべてを見ていた鬼卒は音もなく近寄り、男の魂を冥府へと連れて行った。 むかしむかしの物語。 |