『ストラップ』 市川雅一 「愛していると言う男を信じてはいけない」と雑誌には書いてあったけれど佐山ユミはサトルを愛していると思っているし、愛されていると思っている。 ドラマや雑誌で見る他人の恋愛はいつもばかばかしく感じるけれど、自分の場合は特別だと思っている。 それは奇麗事でも夢見事でもなく、本当に自分は例外だと信じている。 ユミは授業がすべて終わると教室を出てまっすぐに学校を出る。 ゲタ箱のダイヤルを回して鍵を開け、ローファーを丁寧に地面に置く。 このローファーはこの間、母親に買ってもらったものなので、かなり無理して買ってもらったから、大切にしなければいけないと思っている。 学校の近くの駅から電車に乗って、定期券をポケットに入れながら折りたたみ式のケイタイの画面を開いた。 ケイタイの画面はカラフルだが、西陽があたって少し見えにくい。 電車のドアにはケイタイを使ってはいけないと書いた大きなステッカーが貼ってあるが、ユミは仕方がないと思っている。 使いたいから仕方がないのだ。 サトルには用事はなかったが、学校が終わったから、一応かけてみる。 「いまどこ?」と言うと、サトルはかすれた小さな声で「家だけど」と言った。 あまり聞き取れない、聞こえにくいほどの小さな声は、電波が悪いせいだ。 何も話すことがないから、「今から行ってもいい?」と言うとサトルは「うん」と言った。 ユミは、しまったなと思った。ユミは受験生で、今日は予備校の講義があった、でも仕方がないと思った。 予備校にはあまり行きたくないし、サトルのことは好きだから、一緒にいたいと思ったから、仕方がないと思った。 カナコにメールして、朝よりも空いている電車のシートに座った。 サトルはユミよりもい1コ上で、一応浪人らしいが、予備校にも行っていなくて昼間はいつも違う場所にいる。ユミはそのことについて何もサトルに聞いたことがない。 聞かなくてもいいと思っている。 ローソンでポテトチップスと午後の紅茶とファンタオレンジを買う。ユミは午後の紅茶のロイヤルミルクティーが好きだ。 サトルはファンタグレープが好きだけれど置いてなかったので仕方がないと思った。 サトルの家はワンルームの4階建てアパートで、鍵を開けて中に入るとサトルが手帳に何か書いているのが見えた。 サトルは笑っていて、ユミがファンタを渡すと、「ありがとう」と言ってキャップをひねったけれど飲まなかった。 何も喋らずに、サトルは嬉しそうな顔をして手帳に何かを書いていた。 陽が落ちてきて、だんだんとフローリングの明かりが狭くなっていく。 「今からバイトだけど」とサトルが手帳をカバンに入れながら、ユミを見ないで言った。 「どうする?」と言われてもう少し一緒にいたいと思ったけど、仕方がないと思った。 じゃあワタシも出るよと言って、ユミはサトルと一緒にアパートを出た。 サトルがバイトに行くのは、いつも夜だ。どんな仕事をしているのかは知らないけど、なんとなく、そういう仕事だということは分かっている。 香水をきれいにつけて、派手な、大きな襟のシャツを黒いスーツの上から出している。ユミには言わないが、多分ホストだ。 ユミは、カナコが自分の彼氏のことを話していたのを思い出した。 カナコは嬉しそうに彼氏のことをグチる。 カナコの彼氏は元ホストだが、バイトでは割りに合わないらしい。 ホストは毎日お店に出て、長い間客の相手をしないと、客に顔を覚えてもらえないから、学校に行きながらやるのは無理らしい、とカナコは言っていた。 サトルは学校に行っていない。 ユミは、サトルがそういう仕事ではなければいいなあと思っているが、別にかまわないと思っている。 ユミはサトルが好きだし、サトルも好きだと言ってくれるから、別にどちらでもいいと思っている。 ユミはバイトをしたことがないから、余計なことを言って迷惑を掛けてはいけないと思っている。 サトルのことは好きに決まっているが、お互いに依存しあわなくて、自立していなければいけないと考えている。 ユミはサトルと別れてひとりになって、少し急いで暗い路地を進んで、駅に着いた。 電車はあまり込んでいなくて、何とか座れそうだったが、ユミはドアに背中をもたれて立っていた。 向かい側にはユミと同じ高校生の、カップルが楽しそうに地面に座ってしゃべっていたが、ユミは絶対に地面に座ろうとは思わない。 地面に座っている人は、もう立ち上がることはないように思えてくる。 自分が座ってしまったら、一生立ち上がることは出来なくなって、ずっと座って上にいる人たちをきつくニラまなければいけない気がする。 ユミは、自分は立っていなくてはいけないと思っている。ずっと。 何となくケイタイを開いてみる。 ユミはサトルに電話したが、3回コールしてから、4回目がなり終わる途中で切れた。 もう一度掛けてみようと思ったが、サトルの番号が表示されて、ユミは止めることにした。 バイトなんだから仕方がないと思った。 電源ボタンを押して電話を切って、ケイタイを閉じた。 ユミのケイタイには3つのストラップが付いている。 一つはカナコのスウェーデンのお土産で、かわいい毛糸のぬいぐるみだ。 カナコは夏休みに家族でヨーロッパに旅行に行った。 スウェーデンやフィンランドやデンマークとかの北欧を二週間ぐらいで周ったらしい。 本当はフランスとかイタリアとかイギリスがよかったらしいけれど、ノルウェーサーモンやオーロラの話を聞いて納得したらしい。 町を流れる運河がきれいだった、とカナコは言っていた。 2つ目はほかのクラスメイトと買いものに行ったときに、その友達が入ったお店で、何となく買ったものだ。 青いテディベア。 これはあまり気に入っていない。 もう一つはサトルが突然くれたもので、シルバーのプレートに黒い縁取りで「YUMI」と彫ってある。 はじめはちょっとダサいと思ったけれど、サトルがくれたので、大事にしている。 もう一度サトルに電話しようかとユミは考えたけど、発信ボタンを押して、すぐに止めた。 迷惑だろうし、別に用事はないと思ったからだ。 サトルのことは好きだ。 今日はこのまま帰って、受験勉強をしようと思った。今日から本気でやってみようと思ったし、やらなければいけないような気がした。 予備校にも、明日は行こうと思っている。 今日の夜は、家に帰って勉強するつもりだ。2時までやって、サトルにはメールしないで寝ようと思う。 そして、サトルがくれたストラップの付いたケイタイにアラームをセットして、枕のとなりに置いて眠ろうと思っている。 寝る前に少しだけケイタイを触って、眠ろうと思っている。 ユミは電車のシートに座って、カバンの中にあるノンノを開こうと思ったが、一度取り出してから、読むのを止めようと思ってカバンに入れた。 カバンの中の陰になったノンノには、「今年はアースカラー」とプリントしてあるが、ユミにはあまり興味がない。 ユミは、ほかのコがノンノを買うように、服を買うときに参考にするためとか、今どんな服が流行っているとかが知りたくてノンノを買ったことは一度もない。 ノンノに載っているような服にあまり興味がないし、おかしなタレントの人生相談だって、いつもとばして読んでいる。 占いには少し興味があって、自分の生年月日を計算したり、西暦と年号をあわせてみたりするから、サトルのあらゆる情報を思い出さなければならない。 とても面倒だが、なぜかどうしても知らなければいけないような気がする。 サトルとの相性とか、二人はどれくらい続きそうだとか、自分の恋愛感情の傾向とか、知らなければいけないような気がする。 あまり重要そうでなさそうなところに大事なヒントは落ちていて、それは知ろうと思ったときに知らなければいけない。 ユミは、今自分が知らなければいけないことはサトルのことだと思っている。 そうやっているもノンノを買って、占いをやる。 ユミは、いい占いはすぐに忘れてしまう。 大切なものを小箱に入れてしまっておくと、小箱ごとどこに置いたか忘れてしまうように。 悪いことは何だかずっと覚えている。 悪いことがあると、いつも占いを思い出す。 本当はいいことだけ覚えていて、そのとおりになればいいと思っているが、すぐに忘れてしまう。 だから、ユミは占いをやっている。 ユミは電車の壁にもたれて、カバンの中から日本史の参考書を取り出した。 うるさい電車の中では勉強など出来そうにもなかったけれど、ちょっとだけ開いてみようと思った。 ユミが源頼朝の絵をボーっと眺めていると、向こうの電車から、カナコの彼氏が来た。 カナコの彼氏は背が高く、体もがっちりしているけど、少し太めで、髪は茶髪で肩まであって、肌がやけにつるつるだから、カナコの前では絶対に口にしないけど、ちょっと気持ち悪いと思っている。 別に悪い人ではないが、喋り方も余計なほどに丁寧で、あまり好きなタイプではない。 カナコの彼氏とはじめて会ったのは、カナコと買いものに行ったときの食事の時だった。 去年の夏だったことを、ユミは覚えている。 ちょうどキャミソールが流行った頃で、ふたりで同じデザインのキャミソールを買った。 服に関して、カナコは黒が好きで、ユミは赤が好きだ。 ユミは、カナコの服のセンスが好きだ。 キャミソールを買いに行ったとき、カナコは黒いワンピースを着ていて、かわいいと思っていた。 セシルマクビーの真っ黒なワンピースに、ボタンや袖に沿って太くて白いラインが入っている。 ユミは、ポケットにある白のラインもかわいいと思っている。 一度同じデザインのものを買おうと思ったが、自分が着るとガーリッシュじゃなくて、喪服みたいになるだろうと思った。 よくてスクールウェアだろう。 ユミは、たくさん星が付いたピンキーガールやイエンの奇麗なパステルカラーやカジュアルなワン・ウェイが好きで、よく買う。 キャミソールを買った後、ふたりでパスタを食べていた。 もう3時ちかくで、ふたりともあまりお腹も空いていなかったが、買い物も済んだし、別に行きたいところもなかったので、イタリア料理のお店に入った。 カナコはボンゴレッソを注文して、ユミはカルボナーラを注文した。 パスタが運ばれてくるまで、ふたりで喋っていたが、カナコは喋りながらケイタイをチラチラ見ていた。 「ちょっとごめんね」 と言って、カナコは急に席を立ってトイレに行った。 多分電話かなあ、と思いながら、ユミは窓の外の人の流れをぼんやりと見ていた。 お店の厚い曇りガラスの向こうにはたくさんの人が映っていて、正体のわからない流動体みたいだ。 カナコが嬉しそうに戻ってきて、両手を合わせながら言った、本当に嬉しそうに。 「いま、近くに彼氏がいるみたいなんだけど、ユミさあ、会ってみない? 急にごめんね、いい?」 カナコがあまんりごめんと繰り返すし、人に会うことは嫌いではないから、「別にいいよ」と言ってうなづいた。 店の中にはエリック・クラプトンがちょうどいい大きさで流れていて、気持ちよかった。 エリック・クラプトンが終わって、クリスティーナ・アギレラのポップな曲が始まった頃に、カナコの彼氏が入ってきた。 アギレラの歌声が心地よかった。 揺れる電車の中で、長い前髪をいじりながら、カナコの彼氏はユミの方に来ていた。 カナコの彼氏の後ろには誰かがついてきていて、多分カナコだろうと思った。 さっきメールしたときは家にいるって言ってたのに、とユミは思った。 カナコの彼氏はきょろきょろしながらユミの方へ近づいてきた。 ユミの前を通らないで、おばさんにちょっとつめてもらってから、カナコの彼氏はユミの手前のシートに座った。 ユミはぜんぜん気付かなかった。 カナコの彼氏のとなりにいたのは、カナコではなかった。 髪の長い女の人で、赤い髪の根元は真っ黒になっていて、目はアイメイクで真っ青で、白いファーのついた明るい茶色のロングコートを着て、短い革のパンツに網目の粗いタイツを穿いていて、黒いブーツを重ねていた。 ユミは服を見て素直にカッコいいと思ったが、その女の人は不気味に額が広くて、鼻とか頬骨は脂でテカッていて、唇が厚くて、カナコの彼氏と同じみたいだ、とユミは思った。 二人は楽しそうな顔はしていないが、なんだか安心したような雰囲気があって、二人とも落ち着いているのが分かる。 とても打ち解けている、とユミは思った。 「いま彼氏と一緒でしょ、嘘ついてもだめだよ、見ちゃったよ」 と書いたカナコへのメールを、慌てて消した。 ユミは日本史の参考書の上から目だけ出して、二人を見ていた。 カナコには悪いけど、お似合いだと思う。 カナコとは全く別の人間のように思えた。 カナコは奇麗だし、髪の毛もライトな茶色でかわいいし、服だってノンノに載ってるようなガーリッシュなのばかりだ。 カナコにはあんな服は似合わないと思うし、似合って欲しくない、だからあんな彼氏も似合わなくていいと思った。 ユミは、二人を見るのを止めて、メールを打ち始めた。 「明日、カラオケに行かない?」 カナコからは、すぐに返事が返ってきた。 「ユミ、ごめん、明日は彼氏と予定があるんだ、また今度誘ってね、愛してるよ〜〜 カナコ」 カナコは、あの男にも愛してるよと言っているのだろう、そしてそれは私に言うみたいに軽いものじゃなくて、本当に、愛しているから言うのだろう。 あの男は、どういう気持ちでカナコの言葉を聞いているのだろうか。 またカナコからメールが来た。 「来週の水曜なんてどう? 空いてないかなぁ」 ユミの降りる駅のひとつ前の駅に着いたとき、もうすでに二人は席を立っていて、ドアが開くと手をつないで歩いていった。 ユミはサトルのことを考えている。 もしサトルが本当にホストなら、と考えている。 サトルがホストをやっているなら、あんなふうに女の人と歩いていて、お似合いの恋人のように見えるのだろうか。 カナコの彼氏はホストではなくて、本当にあの女の人ともつきあっているんだろうけど、ユミは、サトルがホストをやっている姿を重ねてしまう。 ユミは、カナコの彼氏とあの女の人が、今ごろラブホテルに入って、セックスしているところを想像した。 何だか悲しくなって、偉そうな源頼朝の顔が憎らしくなってきた。 ユミは、カナコはそんなところを見てしまったら、きっと泣いてしまうだろうと思った。 もしあれがサトルだったら、きっと自分も泣いてしまうだろうと思った。 電車が到着して、ユミは日本史の参考書を持ったまま、電車を降りた。 駅のホームには疲れたサラリーマンがたくさんいて、向こうから来る人の波に、ユミは何度も肩をぶつけて、日本史の参考書を落としそうになった。 改札を抜けると、当たりは車の音しか聞こえない。 帰ってきた、と思うと、何だか気持ちがいい。 電車を降りる時、改札を出たらサトルにもう一度電話しようと思っていたが、もうよかった。 サトルが他の女の人とセックスしているところが何度も頭に蘇ってきたが、もうどちらでも良かった。 自分はサトルを愛しているし、サトルも愛してくれているから、それでいいと思った。 ユミは、あまりサトルに干渉してはいけないと思っているし、依存してはいけないと思っている、自立しなければいけないと思っている。 ユミは、ケイタイを開いてカナコにメールしながら帰り道をすごした。 コンクリートにユミのローファーの足音がやけに響いたが、ユミには気にならなかった。 「いいよ、じゃあ水曜日に、誰か誘っていこうね」 メールを送信して、ユミは立ち止まって返事を待った。 もう当たりは真っ暗で、そのうえ風が少し吹いて、寒い。 でも、ちゃんと待っていないと、カナコからの返事は一生来ないような気がした。 ユミはアスファルトを軽く蹴って、真っ暗な空気を見つめていた。 すぐにカナコからメールが来た。 「よかった〜、じゃあ水曜日だね、たのしみだよ」 カナコはいま何をしているんだろうと思った。 まさか自分のように、外で道路を蹴りながらケイタイを触ったりはしていないだろうと思った。 ケイタイを触りながら、ユミはまた家へと歩き出した。 真っ暗な、細長い空間を、ユミはひとりで歩いている。 サトルのことが頭に浮ぶが、できるだけ考えないようにしている。 ユミは、ポケットに入れたケイタイを触って、感触を確かめた。 カナコからもらった毛糸のぬいぐるみは暖かい。 テディのストラップは、綿でできた表面が冷たくなっていて、ヒンヤリしている。 鼻は革でできていて、、目はプラスティックでできているから、かなり冷たくなっている。 ユミの手も冷たくなっているから、ユミはあまり違和感は感じない。 綿も、革も、プラスティックも、全てが無感覚で、ヒンヤリしていて、ユミは何だか泣きたくなってきた。 ただ、カナコのくれた毛糸のぬいぐるみだけが暖かくて嬉しかった。 サトルのくれたストラップは、もうかなり冷たくなっている、冷たくなったユミの手で触っても、かなり冷たかった。 ユミは、サトルの感覚を思い出そうとしている。 暖かい手や、大きな背中を。 ユミは家の前についたが、なかなか入ることはできずに、家の前の道路で、ポケットに手を入れてストラップを触りながら、立っていた。 家に入ると、お母さんが玄関まで迎えに出てくれて、おかえりと言うだろう。もしかしたら、お父さんも出てきて、笑っているかもしれない。 そしたら私は泣いてしまうかもしれない、とユミは思う。 家の前で立っていると、どうしてもサトルのことを考えてしまう。どうしても会いたくてケイタイを取り出したが、やはりボタンを押してはいけないと思った。 サトルのことを考えてはいけない、サトルにはサトルのやりたいことがあるのだし、急に呼び出しても迷惑だろうと思った。 本当は今すぐにでも電話して会いたいけれど、それでは依存してしまうことになるし、自立できないと思っている。 甲高い機械音が響いて、メールが来た。カナコからだ。 ユミは画面を見て、思わず泣いてしまった。 流れた涙が首筋に流れて変な感じだったが、それが妙に安心できて、暖かかった。 冷たい風に、ストラップが軽く揺れていた。 ユミは、涙を、ブレザーの裾からはみ出たブラウスで拭ってから、家に入った。 おやすみ カナコ ユミは2時まで勉強した。 とりあえず簡単な予定を立てて、その夜は半分だけこなした。 ユミは寝る前に、カナコにメールしようと思った。 もうカナコは寝ているが、どうしてもメールしておかないといけない気がした。 ベッドに入って、メールを打った。 「私ももう寝ます、おやすみ」 ユミはケイタイを閉じて、ストラップを眺めた。 暗い部屋の中で黄色い毛糸とシルバーのプレートが少しだけ光っている。 サトルのことを考えた。 ユミは、また明日サトルの部屋に行こうと思っている。 ユミはケイタイをベッドに置いて、上からそっと手をかぶせて目を閉じた。 ユミは、寝る前にもう少しだけケイタイを触ってから眠ろうと思って入る。
< 了 >
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