『homogeneite』 Enuki La Baiha



恩田は見掛け通りにひどく慎重に車を走らせた。
僕はシートに身を沈め、一言も口を聞きたくはないことを主張した。
走り始めてから1時間、そろそろ到着する。
恩田さん。
僕がそう呼ぶと恩田は小動物のようにバックミラーで僕を見た。
そろそろですよね?
ええ、そろそろです。
ひどく暑い。もう、10月だというのに。


翠さんから預かった紙袋の中身は知らされなかった。
おつかいさせられちゃうのに秘密にしてごめんね。
緑さんはすまなそうにそう謝ったのだが僕は知りたいとは少しも思わなかった。
死者への贈り物なんて知ろうとする方が間違っている。


斎木に墓はない。
斎木が望まなかったからだ。
斎木は遺言を残しはしなかったが翠さんも墓を建てようとはしなかった。
これで斎木が生きた証も死んだ証も物理的には存在しない。


死んだらどうなるのかな?
斎木は生前一度だけ僕にそう尋ねたことがある。
僕は笑って、スクラップと答えた。
斎木も笑った。
彼は生前にそれを自らの手で成したのだ。


昨日、雨でも降ったのですか?
いいえ。昨日は東京は晴れていました。どうしてですか?
いや、雨の匂いがしたから。
恩田は空気をかいでみた。
そうですか?


斎木のノート。
 自然か自由か。
 形式か実質か。
 無力のものなど無である。
 有意義と無意義は同質だ。
 倫理は自由のもある。
 普遍は経験を排除する。
 全ては無を喚起するものであればいい。
20歳らしいノートだ。


タイヤが砂利の上で停止した。
吐き気がする。
そうですね。ここは初めての人にとっては吐き気を催させる場所かも知れないですね。でも信じて下さい。ここはそれだけの場所ではないのですよ。
ええ。
翠さんの言葉通りにそこには翠さんの形容通りの容器が置いてあった。
僕は紙袋をその容器の中に入れた。
ここは野犬も来ないのです。
何故か恩田はそのようなことを言った。


帰りの車の中ではどちらも口を聞かなかった。
僕が家の前でお礼の言葉を述べると恩田は軽く首を振った。
いいえ、私はですね、ほっとしているのです。あの場所にあなたを連れて行くことができて。君が初めてなんですよ。他の誰もあそこには行きたいとは言わなかったから。


翠さんから22時頃に電話があった。
今日は本当に有り難う。
いえ、僕は何もしていません。
今度ゆっくり話がしたいわ。お酒も飲みたいし。
はい、是非誘って下さい。


大学が始まったので僕の生活は再び色彩を帯びたものとなった。
人とまともな話すら1ヶ月間はしていなかったのだ。
久し振り。
陽子の声を聞くと何故かここが地球上なのだということを再確認した気持ちになった。
わからないわよ。ここは月の上かもよ。
君がいるのなら月の上も悪くないね。
陽子は溜め息をついた。
もう随分セックスしていないでしょ?
さあ?
今日は家に泊まりなさいよ。
どうして君はそんなに親切なの?
あなたがかわいそうだからよ。
そうかな?
そうよ。私はかわいそうな男を抱くのが好きなの。
コンドームはしたくないな。
我がまま言わないの。パパになりたいの?
君の子供だったらさぞかしかわいいだろうね。
だからあなたって何時までも恋人ができないのよ。
君は彼氏とセックスする時もコンドームを付けるの?
当たり前じゃない。否認しないなんて気狂いじみているわ。
パパになりたいな。
そう言って陽子の胸に顔を静かに沈めるとそこは雨の匂いがした。
斎木とも寝たの?
いいえ。言ったでしょう?私はかわいそうな男を抱くのが好きなのよ。
斎木はどんな男なの?
知らないわ。


フランス語の抗議を終えて食堂に行こうとしていた僕を見知らぬ男が呼び止めた。
陽子とどういう関係なんだ?
かわいそうな男とその保護者らしいよ。
二度と近づくなよ。
分かったよ。
次の週の哲学の時間に陽子の視線を感じたが僕は無視をした。
だからあなたは恋人ができないのよ。
陽子はそう言っていた。
仕方ないさ。俺はパパになりたいのだから。
ママになってくれる女性とじゃないとコンドーム無しのセックスができない。




2000年に僕は20歳になった。
1980年に生まれたからだ。
僕が高校生の頃に中学生が小学生を殺し、大学生の頃に高校生がその中学生に憧れて教師を殺した。
そういう時代だ。


16歳の頃、好きだった女の子に3つの名前を付けた。
一つ目はワセダという名前だった。彼女の兄が早稲田大学の学生だったからだ。
二つ目はアシッドレインという名前だった。これには得には意味はない。ただ何となくだ。
三つ目はいちごという名前だった。これは彼女が僕の中学生時代の旧友とセックスして処女を失った時に付けたものだ。
放課後、初体験の事後報告をクラスメートに向かってするいちごは答えた。
どんな気持ちなの?と質問すると、別に何ともないわ、といちごは答えた。
痛かった?と質問すると、笑って彼のは大きくなかったらこれくらいあったのよ、と教えてくれた。
すっごく痛くて挫折しそうになったわ。帰りは痛くて上手く歩けなかったのよ。
処女喪失は一大事件だ、という既成概念が僕のなかで崩壊した年だった。
すべて事実だ。


大学に入っていくつかの恋愛をした。
最初に付き合った彼女はよく笑うかわいい子で僕と出会ってからそれまで付き合っていた男と別れた。
私、我がままよ?と彼女は言ったし、実際に我がままだった。
でもその我がままは今思えば、彼女本来の性質ではなかった気がする。
そういうことが幸せなのだとお互いに錯覚できた時期だったのだろう。
初めてのセックスの時に入れようとした僕に向かって彼女は、私、濡れてる?と聞いてきた。
うん、濡れてるよと僕は答えた。
実際に濡れていたのだ。今まで僕が触れてきた誰よりも。
彼女から別れ話をされた時にあの感触を思い出す程に確実に、深く。
斎木君を好きになったの、と彼女は言った。
あの時、実はいつも斎木君を思って濡れていたのよ。
そうだったんだ。
ごめんなさい。
君は悪くないよ。
彼女は悪くない。勿論、僕も斎木もだ。


斎木が死んだ日、翠さんは僕にこう尋ねた。。
誰が悪かったの?
誰も悪くはないのだ。ただ、僕たちはいつだって経験が絶対的に足りないだけなのだ。
間に合わない人間だっている。


僕も斎木も何も知らなかった。
娯楽といえば、アルコールとセックスだった。
主義も思想も行為も持ち合わせてはいなかった。
資格が欲しい、留学したい、単位があぶないというのが女の子たちの口癖だった。


斎木は僕に、大学を休学しろと言った。
休学して、何をすればいいんだ?
何もしなきゃいい、と斎木は笑った。
僕たちが19歳の頃にいくつかの戦争があったが、僕たちの誰もそんなものには興味を示さなかった。
論文じみた物を書き、アルバイトをして、何冊かの本を買うと単位が取れた。
僕はいくつかのサークルに入って、いくつかのサークルをやめた。
あるサークルで何人かの子と寝たいと思ったがそのサークルの先輩が、部内恋愛だけはやめろといったのでやめた。


慕っていた先輩が国立大学に編入することになった。
送別会の席で気持ちよさそうに酔った先輩が話掛けてきた。
ねえ、橘君、君とはもっと話したかったのよね。
光栄です。
お酒は好き?
嫌いじゃないですね。
随分と男らしくない喋り方をするのよねぇ、君って。
そうですか?
そうよー。
カラオケボックスでのことだったのでひどく聞き辛く僕たちは体を密着させながら喋った。
でも先輩はどうして国立大学に編入するのですか?
先輩は笑った。
今になって聞くなんて、おかしいわねえ。私、この大学好きよ。尊敬している先生もいるしね。でもね、ここじゃやりたいことができないのよ。
先輩のやりたいことって何ですか?
今は酔ってるから言えない。
編入試験は難しかったんでしょう?
そうでもなかったわよ。論文と面接。
議題は何ですか?
先輩は僕が聞いたこともない単語を口にした。
新しい大学は先輩の実家があるところでしょう? 実家に戻るのですか?
まさか。今更家族と同居だなんて息が詰まって仕方ないわよ。橘君は一人暮らしでしょ?
はい。
自炊とかしてるんだ。
あんまりしてないですよ。
先輩はゆっくりとカクテルの杯を進めた。
私の第一印象ってどうだったの?
かわいいひとだなあと。
じゃあ今は?
頭のいい人だなあと。
ふーん。そんなこと言ってくれなかったじゃない。
だって、言う機会もないし。
何時だっていいじゃない。講義の最中でも、デートの最中でも、お風呂に入っている時でも、テスト中だって、立石先輩、かわいくって、それでいてとっても頭がいいですねーって叫んでくれればよかったじゃない。
そうですね。
遅いわよ。想像力が足りないわよ。
すいません。
先輩は少し黙って飲み続けた。
僕もビールを飲み続けた。
二人ともそれから一曲も歌わなかった。
他の先輩が何度もマイクを差し出してくれたが僕も先輩も断った。
二次会も終わって各自好きに行動することになった。
女の子だけが立石先輩の家で朝まで飲むことになった。
僕は途中まで車を持っている先輩に送ってもらい少しばかり歩いて家まで帰った。
明け方の3時くらいに携帯の着信音で目を覚ました。
橘君、寝てた?
先輩だった。
ごめんね、怒った?
いいえ、ところで先輩。
何?
とてもかわいくて、頭もいいですよね。
有り難う。ね、今から家に行ってもいい?
だって、他の子たちが先輩の家にいるんでしょう?
皆酔って寝ちゃったわよ。弱いんだから。橘君は強いでしょう?
その子たちよりは。
じゃあ今から行くわね。
行くわねって先輩、まだ酔っているんでしょう?
もうとっくに醒めたわよ。
危ないですよ。
じゃあ、迎えに来て。
僕は顔を洗い、軽くうがいをしてから先輩のアパートに迎えに行った。
ごめんね。
先輩はシャワーを浴び、きちんと着替えていた。
さむーい。
貸しましょうか?
橘君は? 寒いでしょう? 私の為なら平気?
そうですね。
いい輪値、このコート。頂戴。
僕、その一枚しか持ってないのですよ。
新しいのを買えばいいじゃない。ねえ、頂戴。くれないと今ここで捨てるわよ。
わかりました、新しいのを買います。
お買い物、一緒に行こうね。
コンビニで酒や食料を買って僕の家に行った。
意外に奇麗だわ。今まで見てきた男の子のたちの部屋の中で一番奇麗。
僕たちはカクテルだとかワインだとかを再び飲み始めた。
橘君さ、ちょっと聞いてもいい?
どうぞ。
セックスって何だと思う?
生殖活動。
それ、本気?
冗談です。愛を深める行為。
それは?
本気ですよ。
セックスして、愛が深まった経験はあるの?
ないですね。
どうして? 愛してなかったの?
どうだったのかな?
愛するってどういうことだと橘君は思っているの?
考えたことないです。
理解してないことをどうして口にするの?
僕は考えた。
今まで僕が20年間口にしてきたことの中で、少しでも理解していたことがあったのだろうか?
僕の言葉が真実だった試しはあるか?
先輩は何かを求める風にグラスを傾けた。
ところで先輩。
何?
先輩のやりたいことって何ですか?
橘君とエッチしたい。
20歳の男に向かってそんな事は言ってはいけませんよ。
今は酔ってるから言えないってば。
酔ってないでしょう。
酔ってるわよ。
先輩はグラスを壁に投げ付けた。
飛び散ったソルティードッグが所在なさげにフローリングの上を転がった。
橘君は何がしたくて大学に来たの?
何もしたくなくて大学に行ったのです。
目的意識もなしに大学に来ているの? 苦痛なだけじゃない?
どっちでも同じだと思います。苦痛の種類が違うだけです。
大学を卒業したらどうするの?
まだ何も考えていません。
私ね、公務員になりたいの。
立派です。
馬鹿みたい? 国家の定義もできてないまま条文だけ丸暗記して。
そういうことじゃないと思います。
酔っているでしょ? 私。
はい。酔っていますね。
先輩は僕に背中を向けて横になった。



時計を見たら明け方だった。
先輩。
眠い。
僕のベッドでいいですか? それとも送りましょうか?
橘君のベッドがいい。
僕は先輩を抱き抱えてベッドに寝かせた。
ねえ、橘君。
はい。
セックスしたい?
したいです。
僕は正直に答えた。
僕は、奈津子が抱きたいって言って。
奈津子が抱きたい。
先輩は微笑んだ。
キスして、ちゃんとしたやつ。


最初にセックスしたのは初夏だった。
彼女は何かが違うといって僕と別れた。
付き合ってみたらね、何かが違ったの。
彼女も最初の彼女のように斎木を思って濡れていたのだろうか。
先輩は僕を思って抱くのだろうか。
僕は誰を思って抱くのだろうか?
今、ここにあるものだけが今を構成するのであれば誰も疲労しないでのであろう。
ア・プリオリな認識と、ア・ポステリオリな認識。
僕は先輩にすがった。
ア・プリオリでもア・ポステリオリでも何でも構わない。
濡れれば、そこにあるペニスは入るのだ。
僕も、恐らくは斎木もなす術なくそれらの通過を傍観した。
皆、年をとり、正しく死んでゆくのだ。
そんなことばかりが確実なのだ。
僕にとって、恐らくは斎木にとっても。
時代を傍観する者は老いという物理的な崩壊に寛容にならざるを得ない。
そして時代は僕のような人間を落伍者と呼ぶのだ。


ひどく焦っていた。
何もかもに。
10代は終わった。
20歳もすぐに終わるのだ。


夏の終わりに先輩と部室で出会った。
久し振り。
お久し振りです。来てたんですね
うん。今日の夕方帰るの。
今日? 何時、こっちに来たのですか?
一昨日よ。


橘君。
はい。
何かやりたいことは見付かった?
見付かりません。
どうするの?
どうしようもないです。
待つの?
待っているのかも知れません。
斎木君のこと聞かせて。
できません。
どうして?
あいつは死んだのですから。
だからじゃない。聞かせて。
できません。




ひどく焦っているのだ。
10代は終わってしまったのだ。
僕にも、そして斎木にも。







2000年9月、10月




北九州文学 2000年度版より

戻る