『夢』 江夏 =第1章= 「近頃あまり夢を見ないな」 そう呟いた、その日、私は夢を見た。 その次の日も、夢を見た。 夢は無意識の世界を表したものだ、という話を聞いたことがある。 自分の心の奥底を写し出す鏡、なのだろうか。 意外な、自分の心を写すこともあるし、恐怖の対象を描き出すこともある。 私はこれまで何度も、怖いと思う夢を見た。 とても幼かった時、越してきたばかりの街で、母親とはぐれて一人ぼっちになった夢。 小学生の時は、ライオンに追いかけられたり、幽霊がでてきたり。もっと大きくなってからは、自分が死刑になる夢を何度も見た。別に、ごくありきたりな夢であると思う。 しかし、年齢的に、そんな子供っぽい夢は見なくなっていたし、加えて、この頃は仕事が特に忙しいせいで、疲れが溜り、夢を見なくなっていた。 実際は絶対に夢は見ているのだが、覚えていないことが多い、という学説がある。そうなのかどうかはわからないが、とにかく私はここ2〜3週間、夢を見た記憶がなかった。そしてそのことを意識した所為かは知らないが、立て続けに私は同じ夢を見た。いや、同じ夢、とは言ってもその内容は異なるものだったのだが。 正確に言えば、『ある人』に関する夢を見たのである。 前もってお断りしておくが、『あの人』について、今まで私は何も書き残そうとは思っていなかったし、誰に知らせる気もなかった。そう、なかったのだ。ましてや他人に自慢するような間柄でもなかったし、ロマンチックな話があるわけでもなかったから。ただ、私が『あの人』を好きだったのだ。 ――ごく普通の片思い。 昔の話だった。苦い思い出として片付けていた。少なくとも自分の中でけじめがついていると思っていたし、あれからいくつかの恋もした。 しかし、続けて何日も、『あの人』の夢を見たとき、自分がまだ、『あの人』を忘れられないのだと知った。6年経った今でも思い続けているのだと。 未練がましいと思った。情けないと思った。6年前にいなくなってしまった人への気持ちを、未だ、私は胸の奥に隠し続けていたのか。……忘れた気でいただけだった。 忘れた気でいただけに、自分すらも欺いた気がした。あの日からの歳月を無駄にしてしまったような虚しさと、怒りにも似た自責の年が、重苦しかった。 私はそんなに『あの人』を愛していただろうか。確かに、当時は若いなりに恋に対し真剣だった。自分の気持ちに正直に恋をしていたと思う。私はそんな自分が好きだったから『あの人』への気持ちが片思いで終わってしまった時も、悲しかったけれども、後悔はなかった。 精一杯『あの人』を愛したから。それは決して報われることはなかったけれど。 |
=第2章= 一日目の夢の中であの人は病院にいた。私には連れに、2人の友人がいて、彼女たちの顔は覚えていないが、3人で『あの人』のお見舞いに行ったのだ。幸い、『あの人』はすぐに退院して、仕事に戻った。舞台演出をしていた。小さな小さな劇団で、名も売れてなかったから、スポンサーもなく、資金繰りが苦しくて、『あの人』はいつも資金集めに奔走していた。人数も足りなくて自分が出演者になることもあった。仕事というより趣味だったし、活動はボランティアそのものだった。 忙しい『あの人』をつかまえたときは、疲れのせいか顔色が悪かった。私はあの人の側に寄り添い、歩きながら、あの人に微笑み、話しかけ、そして手を握った。その手の感触が今も残っている。あの人の指の感触が。私の右手に。 『あの人』がいなくなってから、いや、もういないのだとはっきり認識できるようになった今になって、あれほど鮮明な夢を見るようになるとは。夢の中で、なんて幸せだったことか。自分がどれほど幸せそうに微笑んでいたか。きっと表情は輝かんばかりであったと思う。けれど夢から醒めたとき、恐ろしいほどの寂しさが夢の幸せを拭い去った……。 2日目はあまりよく覚えていないが、たぶん再び入院した時の、あの雨の日の暗い空が見えていたと思う。再入院する前から、すでに何度か倒れたらしいのだが、その時の私は知る由もなかった。ただ私は、たまたま『あの人』の演出した舞台を見て感動し、仕事を手伝ったりするようになっただけだったから。 3日目は私が泣きながらあの人に走りよって、力一杯抱きしめる夢だった。あの人も涙ぐみながら私を抱きしめてくれた。私は涙でぐしゃぐしゃになった顔を、あの人の胸に押しつけて、大きく息をした。あの人は黒の長いコートを着ていた。髪は短くて茶色がかっていた。そこはガレージのようで、広々としていたが、建物の地下特有の暗がりで、周りは茶色ぽくて暗かった。 四日目も、『あの人』の夢を見た。けれど『あの人』の姿を見ることはなかった。 起きてからその日はずっと具合が悪かった。ひどく気持ち悪かった。午後から激しい雨が延々と降り続いた。叩きつける様な激しさだった。 |
=第3章= この私の夢は、夢は夢でも自分の想像を基としたものでなく、記憶を再現したものである。美化もしていないし、誇張もしていない。あくまで私の記憶を基にしていた。もちろん夢特有の曖昧さや、時間のいい加減さはあったけれど。 私は先程、『あの人』に関することを書き留める気はなかったとした。けれど、おそらく6年間もの間『あの人』を思い続けていたのは本当なのだと思うから、改めてしっかり自分自身と向き合ってみたかったのだ。 『あの人』を好きだったことに偽りも、後悔もないけれどとても悲しい思い出だったから、私は忘れようと努めた。でもそれは裏を返せば、あんな悲しい思いをするぐらいならば、好きにならなければ良かったと後悔していたのではないか。 『あの人』に恋していたのは1年程。その間にはただ一度抱き合った、ただそれだけだった。しかも恋人同士の抱擁ではなく、互いへの同情からのものであったと思う。あのときには病状がかなり悪化していたから。 |
=第4章= 6年前の私の恋は、相手を失って終わった。失恋したわけではないけれど、もし、『あの人』が今も生きていたとしても、結ばれはしなかっただろう。 果たして6年という歳月は、1つの恋と1人の人を忘れる時間として、短かったのだろうか。この夢に対して、1つに絞った結論が出せるはずもないが、整理はできたと思う。 何故、『あの人』の夢を見たのか本当のところは分からないけれど、いまは落ち着いた気持ちで、『あの人』のことを懐かしんでいる。まだそれを青春と呼ぶ程、私は年を取っていないけれど、きっとこれからも大切な思い出になるだろう。 長い、長い時間の後で……。 |